ナントガーウ(第二期)
1817〜20年
ティー・カップ:H=54mm、D=97mm/ソーサー:D=141mm
 カップはハート・ハンドル付きのダゴティ・シェイプで、ナントガーウ窯のモールドにも採用されてよく知られる器型である。ハート(心臓)もしくはキドニー(腎臓)形部分の上半分が大きめにデザインされている。
 素磁はフリット軟質磁器で、成型時の形状を保つことが難しかったために、高台が部厚く造型され、カップの底部も厚めに作られている。表面には滑らかで白い釉薬が施されている。
 風景画はウィーン=チューリヒ様式で、ロンドンの絵付け工房ならではのドイツ趣味を呈しているため、本品は白磁の状態でロンドン向けに販売され、窯外において加飾されたものと見るべきである。ナントガーウ製の磁器は、そのほとんどが白磁のままで外部の絵付け工房に販売されている。
 カップ見込みには、廃墟となって屋根に植物が繁茂する館と後ろ向きの旅人が二人、手前右手に岩と樹木が描かれている。顔料は薄れているが、遠景には尖塔と雲を描いている。
 ソーサーにはサイロのような円筒形の構造物を持つ田舎家と丘、旅人二人と岩、岩の裏方に樹木が描かれ、遠景には山・雲と尖塔を、空気遠近法の薄紫であしらっている。
 いずれもピクチャレスク様式の風景であり、「ピクチャレスク」とは「絵画的」、すなわち「実風景ではない」という意味を含んでいる。前景に土の舞台(道)を付け、そこからさらに下方に植物を伸ばすのはウィーン窯の様式であり、それが伝播した先のチューリヒ窯では、前景の岩に隠れた裏側に樹木を配置する様式が好んで用いられた。
 金彩では葡萄の実と葉のボーダーと、口縁にドンティル・ボーダーのフリルが描かれている。カップ外側には葡萄の実が明らかにそれと判るように細長くデザインされているが、カップ内側とソーサーでは描く余白部分が狭いので、実は四つのドット文様に変更されている。
 



エンパイア・シェイプ、ハイ・ループ・ハンドル


ダゴティー・シェイプ、キドニー(もしくはハート)・ハンドル


ナントガーウ(第二期)
1817〜20年
ティー・カップ:H=61mm、D=97mm/ソーサー:D=141mm(エンパイア・シェイプ)
ティー・カップ:H=52mm、D=101mm/ソーサー:D=149mm(エトラスカン・シェイプ)
 英国屈指の上絵付け師、ウィリアム・ビリングズレイは、1774年から徒弟としてダービー窯に入窯した。短期でエドワード・ウィザーズに追随する色絵の技術を身に付け、次第に独自の描法を確立し、ダービー窯随一のスペシャリストとして、花絵や金彩に特異な才能を発揮するようになった。彼は同時に磁胎と釉薬にも強い関心を示し、同じくダービー窯の絵付け師だった父の家の庭に窯を建て、職人まで雇って製磁技術の研究に情熱を傾けるようになった。
 1796年にダービーを出てピンクストン(→ピンクストンのページ参照)に移り住み、この地に新窯を建設して磁器を焼いたが、事業は成功せず、彼は1799年からマンスフィールド、1802年からはブランプトン・イン・トークシー(トークセイ)に場所を移しながら、絵付け専門の工房を経営した。絵付け用の白磁はピンクストン時代の在庫の他、ダービー、カーフレイ、フランソワ・プーヤ(リモージュの窯でなくパリのロクレ&ルシンガーの後身を指す。→ロクレ&ルシンガーのページ参照)から購入したが、期待したほどの商業的利益はなく、ブランプトンで提携したサミュエル・ウォーカーや、娘で絵付けもできるサラとラヴィニアを伴って、1807年、ウースターに移り、バー、フライト&バーのウースター窯と雇用契約を結んだ。
 ビリングズレイとウォーカーはウースター窯の絵付け師として雇われたのではなく、素磁と釉薬の改良を命じられたといわれる。しかし彼が絵付けしたウースター製の絵皿が残っており、ウースター窯の博物館の収蔵品をはじめとする作例がいくつもあるので、材土配合の開発ばかりしていたわけではない。ウースター窯での白磁の改良研究は、1809年頃から本格化したと思われる。
 白磁研究開始から三年後の1812年9月に、サミュエル・ウォーカーはビリングズレイの長女サラと結婚した。同年11月、白磁開発の成功報酬として200ポンドの賞与が二人に支払われ、翌1813年には、新規開発した白磁の配分秘法を第三者に漏らさないことを条件とする口止め料契約で、バー、フライト&バー、ウースターから1000ポンドを受け取った。
 その頃ビリングズレイは、ウェールズ南部のナントガーウに新しく窯を建てようと画策し、地元の測量技師ウィリアム・ウェストン・ヤングと密かに提携した。ヤングはグラモーガン運河東岸に隣接した土地を用意し、そこに二基の窯を建設して、1813年、ビリングズレイ父子を迎えた(第一期ナントガーウ窯)。このときビリングズレイは名前を「ビーレイ」と変えてウースターを逃亡同然に去った。一つにはピンクストン以来重ねた借金取りから身を隠すためで、いま一つには守秘義務契約を結んだウースター窯の怒りから逃れるためであった。
 このようにしてナントガーウに自窯を設立したビリングズレイであったが、初期投資や借金返済でウースター窯から受け取った1200ポンドをすり減らしてしまい、製磁の運転資金は250ポンドしか残っていなかった。窯は翌1814年には早くも破綻の様相を見せ、ヤングは600ポンドの自己資金を追加してビリングズレイを助けるとともに、州政府による資金援助と輸入磁器製品に対する関税値上げの決議を議会に働きかけた。この時代はナポレオン様式(アンピール様式)が全盛で、ロンドンに集中していた絵付け専門工房では、パリ製の輸入白磁への莫大な需要があった。関税率値上げによってこの輸入フランス白磁の一端を切り崩し、ナントガーウ製白磁のロンドンへの販路を伸ばそうと考えたのである。しかし結局ヤングの要求は拒否され、彼は翌1815年に破産する。
 ヤングの政治的運動は失敗に終わったが、彼の活動を耳にした「カンブリアン製陶工場」の経営者ルイス・ウェストン・ディルウィンが、援助と提携を申し出た。そこで1814年には磁器製造ラインと技術、原型などをカンブリアン製陶工場に移転することに合意し、ビリングズレイとウォーカーはディルウィンのもとで白磁焼成に成功した。これを「スウォンジー窯」と呼ぶ(→スウォンジーのページ参照)。
 スウォンジーでは1814〜16年にかけて非常に高品質で優れた軟質磁器を焼いたが、コスト高だったために、またしても利益を生むことはなかった。
 1816年の年末に、ビリングズレイはスウォンジーでの経済的成功を諦め、ナントガーウに戻った(第二期ナントガーウ窯)。18世紀フランス風の質感を持つ第二期ナントガーウの軟質白磁は評判となり、1817〜18年にかけてロンドンの絵付け工房に多くを販売するようになった。ナントガーウ製白磁の大半は窯で色絵付けされることなく、グラモーガン運河からウェールズの首都カーディフを経て、白磁のままロンドンに運ばれたとみられている。 ロンドンではブラドレイ&Co.やシムズ&モートロックス(シムズが株主から外れるとモートロック&サンズ)などの絵付け工房が大口の顧客となった。他にもトーマス・バクスター、ヘンリー・モリス、ウィリアム・ポラード、ジョージ・ベドウ、デイヴィッド・エヴァンスなどの一流工房には、いずれもナントガーウ白磁に絵付けした作品が残されている。今日「ナントガーウ」として伝わる作品の多くには、このような工房による外部絵付けが施されているものと考えるべきである。
 しかし製品の90%が窯の中で壊れてしまったナントガーウの経営は非効率的で、すぐに資金が枯渇してしまった。そこでジョン・ローズ&Co.(コールポート)を頼り、1819年から20年にかけての交渉で支援の約束を取り付けることができた。
 当時コールポートでは、やはりロンドンの絵付け工房への白磁販売を推進しており、同1820年に発表した無鉛長石釉白磁が芸術協会の金賞を受けたことで、販売に弾みを付けようとしていた時期であった。一方でナントガーウの白磁はコールポートにとっては大きな脅威であり、前述のモートロックとの取り引きをナントガーウ窯に奪われ、苦境に立たされたジョン・ローズは、このことを非常に気に病んでいたという。そこでローズは、ロンドンでの失地回復のため、コールポートにビリングズレイとウォーカーを呼び寄せ、資金提供と七年間の専属契約を結んだという。
 ところが、これらの事実関係を証明する証拠はない。コールポートでは外部絵付け師待遇だったようだが、ビリングズレイが描いたとされるコールポートの作品を見つけることは大変難しい。全くないわけではないが、ほとんど仕事はしていないと思われる。コールポートで花絵などの職人を育成したとも言われるが、これにも証拠がない。要するにジョン・ローズは、ビリングズレイが他窯に奪われたり、逃げてしまったり、優れた白磁を再び生産するなどしてコールポートを脅かさなければよかったわけで、事実上飼い殺しの状況に置いてあったと考えるのが妥当である。
 また、ビリングズレイの製磁への情熱と気力をそいだ最大の出来事は、ダービー出奔以来二十年にわたって行動を共にしてきた娘のサラが1817年1月に亡くなり、続いて同年9月にはラヴィニアも失って、悲しみの淵に落とされたことである。これはビリングズレイの書簡から明らかに判る、引退へのきっかけであった。
 1820年にビリングズレイ父子がウィリアム・ウェストン・ヤングと別れてコールポートへ去ると、ナントガーウに残されたヤングは、ブリストル出身の絵付け師トーマス・パードーを雇って、白磁在庫に絵付けを施して販売した。最後に1822年の一般入札で、窯の資産を売却して閉窯した。
 ビリングズレイは1828年までコールポートで暮らし、1月16日に亡くなった。名前は「ビーレイ」のまま、コールポート近くの墓地にひっそりと埋葬されたという(「アンティーク・カップ&ソウサー」p.192参照)。
 ビリングズレイの死から五年後の1833年、廃窯となって十年以上空き家だったナントガーウ窯の工場建物を、トーマス・パードーの息子であるウィリアム・パードーが買い、ナントガーウ窯を再興した。製品は磁器ではなく、アーザン・ウエアやストーン・ウエアであったが、子供のシャボン玉遊び用に作っていた陶器製のパイプが、折からの喫煙ブームに乗って売り上げを伸ばし、主にタバコ用パイプメーカーとして事業を継続した。20世紀になると、パイプに替わって紙巻きタバコが主流になったため、1921年に廃業した。

 ここに掲載した作品はどちらも豪華な金彩が贅沢に施され、鮮やかな六連、七連や九連の薔薇の花と葉が描かれたナントガーウの典型作で、これは第二期ナントガーウ窯の窯内で加飾されたものである。様々な方向を向いた薔薇の花は、ビリングズレイが特に好んで描いたモティーフである。
 葉は花の上の部分では明るく軽い、はっきりした緑色が表されているが、下の部分では黒ずんでいる。緑を発色させる酸化第二銅顔料は、温度と焼成時間の管理が難しく、美しい色が出せない場合がある。ナントガーウの作品では、掲載写真のように黒ずんだ緑の葉を描いていることがとても多い。このような難度の高い緑の着彩には、顔料に鉛などを混ぜると色が安定するので、18世紀にはブリストル窯などで使用されていたが、食器の釉薬や顔料に含まれる鉛の被害については、1760年代には警告が発せられてよく知られるところであり、重金属を混ぜて鮮やかな発色の食器を作ることは、ある意味「禁じ手」であったため、特別な作品にしか用いられなくなっていった。鮮やかで安定した緑色が描かれたナントガーウの絵皿などを見た場合は、ロンドンなど外部の絵付け工房での仕上げである可能性を考えてみる必要がある。
 金彩の文様は、薔薇絵の周囲に施された「サブレ・ドール(金砂子文)」など、ロココの風情を残したフランス風のもので、当時流行のアンピール様式とは異なるが、形状はエンパイア・シェイプ、ダゴティー・シェイプともにフランス由来の大陸風で、しかもナポレオン好みのものである。エンパイア・シェイプのカップには把手(ハンドル)の反対側を正面として薔薇絵が描かれている(→コラム3のページ参照)。またダゴティー・シェイプのカップにはキドニー(腎臓型)、もしくはハート型と呼ばれるハンドルが、高い位置に取りつけられている。ナントガーウ窯のキドニー・ハンドルは、上部のカーヴの部分が下より大きな曲線を描くのが特徴である。ダゴティー・シェイプの方にはコーヒー・カップが伝わっており、トリオのセットになっている。「ダゴティー」とは、19世紀初頭のパリにあった「ピエール・ルイ・ダゴティー窯」のことで、ここに掲載したナントガーウ製品に見られるような造形を特徴としていた。
 ちなみにナントガーウとコールポートの関連性を考える参考として、同じ絵柄のコールポート製ティーカップを下に掲載した。ビリングズレイがコールポートに招かれた当時の作品である。このカップには、ナントガーウ風の美しく豪華な金彩と、ビリングズレイのデザインの薔薇絵が描かれている(ただし五連で、一輪は裏側を描いている)。葉も下の部分の一列は、やはり黒ずんだ緑色をしている。このようにナントガーウ窯のデザインを完全に取り込んだコールポートの作例がある以上、またビリングズレイの墓の場所からしても、彼がコールポートに暮らし、窯や製品にある程度関わっていたことは間違いないと思われる。

地名の発音について:本サイトでは「NANTGARW」の発音に関して、ロンドンのクイーンズ・イングリッシュを話す地域の読み方に近い「ナントガーウ」を採用しております。ナントガーウ窯があったウェールズ地方では、訛りのために「R」の発音で巻き舌が強くなり、「ナントガルウ」に近く聞こえます。その他「ナントゴー」「ナンガルー」などと発音する地域の人々もいます。
 『ヨーロッパ アンティークカップ銘鑑』では「ナントガーウ」、『アンティークカップ&ソウサー』では「ナントガウ」と表記しています。

 

コールポート パターン・ナンバー828のティーカップ 1820年頃

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