チェンバレンズ・ウースター
1803〜1806年
ティー・カップ:H=62mm、D=85mm/ソーサー:D=137mm

 ソーサー見込みの左側に見える雲や、右側の寝殿の礎台部などには、理解力不足によると思われる日本製磁器絵付けとの異同があるものの、さほどアレンジを加えていない「御殿文様」のジャパン・パターンである。四つの区画の中には山型に変成した金彩の葉文様と、揚羽の蝶文様が変成したピンクの図柄が斜めに顔を覗かせる花雲図が、それぞれ二カ所ずつ描かれている。
 顔料は朱・ピンク・黒・緑の四色と染付の藍色、金彩が用いられ、釉薬が青灰色がかったハイブリッド・ハード・ペースト・タイプの素磁である。
 パターン・ナンバーは323である。







チェンバレンズ・ウースター
1816年
コーヒー・カップ:H=66mm、D=78mm/ソーサー:D=157mm

 チェンバレン社製のバケット・シェイプには数種類のバリエーションがあり、本品は前掲のシノワズリ図柄のカップと共通の「プリンセス・シャーロットのシェイプ」で、コーヒー用のサイズとなっている。
 地色は薄い青紫色、もしくはほぼ水色と言ってよい色味をしている。地柄はセーヴル窯の「ウーイ・ド・ペルドリ(=イワシャコの目)」のコピーである。
 花絵は単一種ずつ、カップ内側に大小三種類の花が描かれている。








チェンバレンズ・ウースター
1815〜25年
ティー・カップ:H=70、D=87mm/ソーサー:D=160mm

 本品は口縁にガドルーン装飾が施されたバケット・シェイプで、チェンバレン社ではこれを「プリンセス・シャーロットのシェイプ」と呼んでいる。ソーサー口縁にはパルメットとアカンサス(もしくは貝)の立体造形が交互にあしらわれ、ハンドル上端のスクロール部分には鋭い嘴を持った鳥の頭、下端には髭のある男性の顔が立体的に造形されている。
 絵柄は四種類の樹木と二種類の水草、門塀と楼閣を中心とする二区画のシノワズリ装飾を巡らし、ソーサー中央には三個の植木鉢と花瓶一個に花が生けられている。これらは全て、濃い染付、薄い染付、濃い赤茶色、薄い赤茶色、金彩の五色で着彩され、人物のみが上絵の鮮やかなエナメルで描かれている。
 カップには長い杖を携えた弁髪の中国人がピンクと緑の衣装で描かれている。この服地の襞や皺の具合は非常に細かく表現され、エナメルは翻波文的に盛り上がっている。ソーサーには同じ配色で違う衣装に、帽子を被り鼻の下に八の字髭をたくわえた中国人が描かれている。この人物は右手に杯、左手に瓶を持ちながら浮かれており、中にはワインのような赤い酒が入っている。








チェンバレンズ・ウースター
1815〜25年
ティー・カップ:H=67mm、D=82mm/ソーサー:D=139mm

 ロバート・チェンバレンは、ドクター・ウォール期のウースター窯最初期の、1750年代から在職していた色絵付け師で、1770年代には絵付け部門の有力なスタッフになっていた。しかし1776年には筆頭株主だったドクター・ジョン・ウォールが亡くなり、やがて1783年、ウースター窯の経営者がウィリアム・デイヴィスなどの創立メンバーから、ロンドンのトーマス・フライトに引き継がれると、チェンバレンは息子で絵付け師のハンフリーを連れてフライト・ウースターを辞去しようとした。トーマス・フライトは、ウースター窯のロンドンでの小売り部門を担当していた人物で、自分の息子達に与える目的のためだけにウースター窯を買収したとみられている。トーマス自身はロンドンに住んでいたばかりでなく、ウースター窯の小売りショップであるにも拘らず、扱う商品の大半はフランス磁器であり、彼の事業にはウースター窯製品の仕入れの必要がほとんどなかった。フライトが輸入していたフランス磁器は品質においてイギリス製品よりもはるかに優っており、ウースター窯製品では太刀打ちできない水準だったといわれる。
 トーマス・フライトは、ウースター窯買収の翌1784年に、長男のジョゼフをウースターに送り込んだ。ジョゼフはフライト・ウースターの白磁に絵付けを行って納品を継続することを条件に、1786年、同じウースターの街にチェンバレン父子が絵付け専門の自分の工房を開いて独立することに合意した。
 チェンバレンは最初の二年程はフライト・ウースターから白磁の供給を受けていたが、1788年にジョゼフの弟であるジョン・フライトがウースター窯に参入すると、1789年始めにかけての間にフライト兄弟と決裂し、白磁提供元をカーフレイ窯に変更した。弟のジョン・フライトは、兄のジョゼフに比べて勘定高く、打算的な人物だったと伝えられている。また彼は、父が扱うフランス磁器を見て育ち、生来のフランス好みであり、チェンバレンが描く中国写しや伊万里・柿右衛門写しといったウースター窯伝統の色絵を、フランス磁器より劣るものと見なして評価していなかった。チェンバレンは、自分の芸術を理解せず、冷徹な態度で接してくるジョン・フライトへの反発を強めた。ジョンは会社の利潤追求のため、チェンバレンに卸す白磁の売価を値上げしようとして背かれ、ウースター窯と同じステアタイト製法で安価な白磁を生産するカーフレイ窯に、チェンバレンとの取引を奪われてしまった。この出来事はチェンバレン一族とフライト一族との間に深い怨恨の種を撒き、激しい憎悪の嵐を引き起こした。チェンバレンとフライトはウースターの街で出会っても挨拶すら交わさず、お互いに職人の引き抜き合戦を繰り返して相手の営業を妨害しようとした。
 フライト・ウースターがこのような騒ぎの渦中にあった1789年、ジョン・フライトはチェンバレンに対抗するため、父親の縁故を利用してパリの各窯業者を訪れた。中でも「アングレーム公爵の工房(ディール&ゲラール)」との間に、六年間にわたって大量の白磁を買い付ける契約を結んだ。また後にはクリニャンクール窯製の硬質白磁にも絵付けを施して販売している。こうしてフライト兄弟は、磁器製造者・窯元としての誇りも自負もかなぐり捨て、海外他窯の磁器を仕入れて販売することでウースター窯の利益が上がりさえすればそれでよしとする、単なる「焼き物商人」に堕落していった。ジョン・フライトは、精巧で艶やかな初期ウースターの色絵を継承する高価なチェンバレン製品への対策として、ディール&ゲラール製の輸入フランス白磁に簡単な金彩を施して安価に薄利多売する戦略を立て、新たに女性金彩師シャーロット・ハンプトンを雇って大量生産を指導させた。それまでのウースター窯は、金粉を蜂蜜で練って絵付けする「ハニー・ギルディング」という技法を用いて加飾していたが、ハンプトンは金粉を水銀で練るロンドン風の金彩技法をウースターにもたらした。金の色が赤っぽく、筆の刷毛目が見えるハニー・ギルディングとは異なり、水銀金彩は表面が滑らかで、よく輝く平面的な黄色い金彩が特徴である。チェンバレン父子の離反事件をきっかけに、1789年以降のウースター窯の象徴となったこの金彩技法は、彼女の名前をとって「ハンプトン・ギルディング」と呼ばれる(「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」p.123下に、フライト・ウースターの量産品を掲載)。
 チェンバレンの新たな盟友となったカーフレイ窯の経営者トーマス・ターナーは、チェンバレンに白磁を売るばかりでなく、巨額の資金をも貸し付けた。チェンバレンはこの資金をもとに、フライトと決別した1789年には、ジョン・フライトのパリ外遊の隙を突いてウースターのハイ・ストリートに小売店を出し、自社で色絵・金彩を仕上げたカーフレイ製磁器を販売した。この店は、ドクター・ウォール期ウースター窯の十五人の創業株主の一人で、地元での小売り部門を担当していたサミュエル・ブラドレイの古いショップを買ったものだったため、ウースター窯の昔馴染みの顧客の多くがチェンバレンに流れてしまった。帰国して事情を知らされたジョン・フライトは衝撃を受け、後にこの痛恨事を後悔の念をもって書き残している。
 チェンバレンの絵付け工房は、カーフレイの白磁に色絵・金彩を施し、再びカーフレイに送り返すといった、カーフレイ窯の絵付け部門としての役割も担っていた。このような資本・卸−製造・販売代行という関係から、この時期のカーフレイとチェンバレンを提携企業もしくは一体のものと見て、「カーフレイ=チェンバレン」と呼ぶ学説もある。
 やがてカーフレイによる白磁の供給が、チェンバレンの仕事量に追い付かなくなり、1791年頃、チェンバレンは自力で白磁を焼成しようと決意し、遅くとも1793年までには窯を建設したとみられる。その後はカーフレイ製の白磁への加飾を続けながら、徐々に自社製白磁の使用への切り替えを進め、1796年には自社白磁の安定供給に漕ぎ着けた。チェンバレンの白磁はハイブリッド・ハード・ペースト(混合硬質磁器、擬似硬質磁器)素磁で、70%近い珪素を含有し、マイセン白磁に迫る1430度以上の高温にも耐える品質を持っている。この時期、1795年前後のチェンバレンズ・ウースター最初期の自社素磁に絵付けした作品(パターン・ナンバー9番)が、「アンティーク・カップ&ソウサー」p.47に掲載してあるので、ご参照いただきたい。
 ロバート・チェンバレンは1798年に亡くなり、会社は彼の息子で共に絵付け師のハンフリーとロバート兄弟に引き継がれた。
 その後、1807年9月に英国皇太子(後の国王ジョージ四世)が工場を訪れ、チェンバレンズ・ウースターは初めて王室御用達となった。これをきっかけに王室向けの超高級白磁の開発に着手し、1811年に皇太子が摂政になると、同年、慶祝の意味を込め、この素磁に「リージェント・チャイナ」と銘打って発表した。このハイ・コストな新磁器に、極めて精巧な絵画的色絵を描き、手の込んだ金彩をふんだんに巡らした豪洒な貴族向け作品は、英国他窯に甚大な影響を及ぼした。同時期のライヴァルであったバー、フライト&バー期のウースター窯やブルーア期のダービー窯などは、競ってこの装飾様式に追随しようとし、また同様に新素磁と新釉薬の開発に凌ぎを削ったが、どちらの窯も贅を尽くしたチェンバレンズ・ウースター製品の人気には及ばなかった。
 チェンバレンのライヴァルだったダービー窯は、窯業への情熱が全くない経営者マイケル・キーンとウィリアム・デュズベリ二世未亡人との不倫騒動に対する職人の反発のごたごたや、二人の結婚・離婚の挙げ句に起きた両家の裁判を経て、1811年にロバート・ブルーアが窯を買収するという混乱の渦中にあった。またウェッジウッド窯も、1812年から始めたボーンチャイナ事業が開始早々から失敗し、チェンバレン磁器の一人勝ちを許していた。同じウースターの地で因縁のライヴァルだったバー、フライト&バー、ウースター(1813年以降はフライト、バー&バー、ウースター)は、ウィリアム・ビリングズレイ親子に依頼して、1812〜13年にかけて、リージェント・チャイナに対抗する高級な新磁器素材を完成させたが、チェンバレンの人気と売り上げには及ばなかった。
 このように競争相手が苦戦する中、チェンバレンは1813〜14年初頭にかけての時期にロンドンに進出してピカディリーに小売店を開設した。更に1816年にはニュー・ボンド・ストリートに移転して規模を拡大し、事業は繁栄した。この店では自社製品の他に、スタッフォードシャー地方製やスウォンジー(カンブリアン・ポタリー)製のアーザン・ウエア、ブルーア・ダービーの磁器製品、ブリストルのガラス製品、フランスの硬質磁器製品なども扱った。またロンドンの最新流行の趣味趣向を反映するために、顧客からの特別注文品の製作も受け付けていた。
 筆者は18世紀半ばのセーヴル窯製の軟質磁器の絵皿(真正品)の裏面に、セーヴル窯の窯印に添える形でチェンバレンズ・ウースターの窯名の書き込みがある作品を見たことがある。この書き込みは「リテイラーズ・マーク」といい、チェンバレンがこの皿をロンドンで小売りしたことを示している。これを証拠としてチェンバレンのショップでは、新作品ばかりでなく、セーヴルなど18世紀の古窯のアンティーク品も商っていたということが判明した。
 こうしてチェンバレンズ・ウースター社は1820年代にかけて、名実ともに英国磁器メーカーの王者と賞される最高の地位と評価を確立してゆく。
 会社はロバート・チェンバレンの息子で、父とともに本家ウースターに反旗を翻した絵付け師のハンフリー・チェンバレンが率いていたが、1824年にミニアチュールのペインターとして名の知られた長男ハンフリー(父と同名)が三十三歳の若さで亡くなり、父のハンフリーは三年後の1827年に引退した。そこでチェンバレンズ・ウースターは次男のウォルターに引き継がれ、彼は共同経営者としてジョン・リリーの資本を入れた。
 1820年代のチェンバレンズ・ウースターは、生産量ではフライト、バー&バー、ウースターを抜き、加飾水準ではブルーア・ダービーを遥かに凌いでいた。しかし1830年代に入ると、ミントンとコープランド(1833年から。元スポード)を二大リーダーとするスタッフォードシャー窯業群の勢いに圧され、売り上げは漸減し始めていた。そこで1840年に、創業以来の敵対者、フライト・バー&バー、ウースターを吸収合併し、資本金四万ポンドの大会社となった。また同年、ロンドンのコヴェントリー・ストリートに二店舗目の販売所を設けて、売り上げの増加を目指した。
 しかしこの合併は成功せず、経営状態は悪化し続ける。1840年代には新しくボーンチャイナを導入したが、これも業績回復には役立たなかった。窮地に立たされた経営陣は、新たに磁器で装飾を施した建具のドアや、タイル、洋服のボタン、アクセサリーなどの製造に手を出したが、次々に失敗に終わった。特にタイルとボタンについては、その製造方法が特許権の侵害に当たるという損害賠償訴訟を起こされる羽目になってしまった。
 このような大きな困難に立ち向かわなければならなかった1840年代のチェンバレンズ・ウースター社は、会社の出資者から次々と見切りを付けられ、1848年にはウォルター・チェンバレンとジョン・リリー以外の経営者が全員、会社を去ってしまった。1847年から1850年迄は、社名から「チェンバレン」が消え、「ジョン&フレデリック・リリー」と称していたという説もある。
 1850年にジョン・リリーが引退すると、ウィリアム・ヘンリー・カーが参入し、チェンバレン、フレデリック・リリー(ジョンの息子)、カーの体制となった。ウィリアム・カーは極めて精力的な人物で、会社役員に就任するやいなや、急ピッチで製品ラインナップの改革に着手した。しかし翌1851年に迫った英国初の国際大万博の期日には、チェンバレンズ・ウースターの製品改良は間に合わなかった。
 1851年のロンドン大万博に敗北することは、チェンバレンズ・ウースター社内では出展前から判っていた。それでも1845年頃に開発した、蜂の巣状の網目に表面を切り抜く中国写しのカップ&ソーサー類をメインに、ドア家具や磁器製ブレスレット、ブローチなどを展示した。そのお粗末さは目も当てられぬ状況だったようで、チェンバレン社は冷笑の的となった。展示スペースを埋めるために、幸せだった過去の栄光の時代の作品(古いもの)を飾ったことが、一層の侘しさを強調したという。
 この重大な万博での失態の責任から、ウォルター・チェンバレンは株を手放して会社を去り、窯業界からチェンバレン一族の名前は消えてしまった。翌1852年までにはフレデリック・リリーも株を売り、会社はカー&ビンズ、ウースターとなった。
 とはいえ、ロンドン大万博での敗北は、チェンバレンズ・ウースター社に限ったことではない。装飾陶磁器部門では、セーヴル、マイセン、ベルリン、ウィーン、ヘレンドなどの大陸勢に英国勢は大惨敗を喫し、英国本土開催という地の利があるにも拘らず、金賞0、銀賞0、銅賞(カウンシル・メダル。評議員賞)にミントン社が辛うじて1、というていたらくに終わった。これに不快感を表したヴィクトリア女王は、以後の万博対策として突貫工事でロンドンのサウス・ケンジントン地区に博物館を建てさせ、大万博の翌1852年に装飾工芸博物館(現・ヴィクトリア&アルバート・ミュージアム)がオープンした。これは世界初の装飾工芸専門博物館である。
 女王は英国全土の職人に呼びかけ、この博物館を訪れてここに公開するコレクションをよく見、衰えてしまった技術力を18世紀の昔に戻し、また大陸の王立窯に匹敵する芸術性の高い製品を作らせようとした。女王は「これらと同じような優れたものを作れ」という心算で言ったのだが、「これらと同じようなもの=コピー、贋作」と受け取られ、十九世紀後半のヨーロッパ社会では、大贋作ブームが巻き起こってしまった。ヴィクトリア&アルバート・ミュージアムは「贋作元ネタ提供館」となり、これ以降大陸でも続々と建設された装飾工芸美術館も、似たような運命を辿った(「アンティーク・カップ&ソウサー」p.144、→コープランドのページ参照)。
 ところで、カー&ビンズ、ウースター社は、1853年のアイルランド・ダブリン万博で劇的な復活勝利を納める。そのとき発表した作品などにまつわる話は、「カー&ビンズ、ウースター」の解説ページで詳しく述べることにする。

 ここでは再びバケット・シェイプ(チェンバレンズ・ウースターでは「バーデン・シェイプ」と呼ぶ)のカップ&ソーサーを紹介する。前掲作と違っている点は、浮き彫り状のレリーフで花が表現されていることで、地色の鼠色はエンボス部分を塗り残して施してある。カップ内側には印象的な花絵が、強く鮮やかに描かれている。
 ハンドルはキドニー(腎臓)型で、チェンバレン社に特有の金彩によるドット文装飾が施されている。
 ここに見られるようなレリーフの花装飾を用いたチェンバレンズ・ウースターの作品でよく知られるものに、「ユニオン・ボーダー」というのがある。皿などの縁装飾にあしらわれ、地色にエンボス白抜きの三種の花が、それぞれアイルランドの国花シャムロック(シロツメクサ)、スコットランドの国花アザミ、イングランドの国花バラとなっている。





チェンバレンズ・ウースター
1815〜25年
ティー・カップ:H=70mm、D=89mm/ソーサー:D=155mm

 チェンバレン社のこの種の形のカップ&ソーサーは、三種類の造形で作られた。口縁の外側に凹凸(ガドルーン)が造形された本品は「ニュー・ガドルーン・トゥルネイ・シェイプ」と呼ばれ、羽のような装飾的造形のハンドルが特徴である。
 この他、ハンドルのスクロール部分の内側に鳥の頭が造形されたカップを「プリンセス・シャーロットのシェイプ」と呼んでいる。
 図柄は金彩と小花をモティーフにして、何通りかデザインされたもののうちの一つで、いずれの図案も本品のように、繊細かつ豪華な手の込んだ金彩文様と、多種の花尽しでできており、1810〜20年代にロンドンで流行していたフランス好みの金彩装飾を取り入れた作品になっている。




チェンバレンズ・ウースター
1815〜25年
コーヒー・カップ:H=68mm、D=81mm/ソーサー:D=140mm

 この作品はバケット・シェイプという形状で、チェンバレンの「十八番(おはこ)」のスタイルとして知られ、他窯にはあまり作例がない。シェイプ名はチェンバレンズ・ウースター窯では「バーデン・シェイプ」と呼ばれており、キドニー(腎臓型)・ハンドルが取り付けられている。ソーサーは深型の古いタイプが用いられている。
 染付の藍地に金彩で草の葉文様があしらわれ、白抜きのパネル内にはエナメル上絵付けでチューリップやポピー、パンジーなどの花が描き込まれている。この絵柄はミントン窯(第一期1799〜1816年)にも全く同じ作例がある。

 

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