コープランド
1897年 商標登録された通常のコープランド社の窯印
コーヒー・カップ:H=54mm、D=54mm/ソーサー:D=121mm
 本品に用いられたごく薄いクリーム色は、象牙色(アイボリー地)を表現する目的で施されている。紺地の上にはプリント金彩で細かい花文様が描かれ、金のバンドの上には盛り金のドットが二列に並べられ、黒でメアンダー文(雷文)が描かれている。
 






コープランド
1852〜74年 緑色の染付で1851〜85年迄使用されたコープランド社の通常の窯印
ティー・カップ:H=57mm、D=85mm/ソーサー:D=137mm
 この絵柄はコープランド社の前身である旧スポード窯でデザインされ、同社の日本風パターンの中でも特に優れたものの一つとして、1805〜25年頃にかけて非常に人気があった。本品はその古い図柄をコープランド社が復刻生産した作品である。
 旧スポード窯ではこの図柄のパターン・ナンバーは 967番で、伊万里磁器の絵柄を源流としながらも、リージェント時代の英国磁器らしい独自のアレンジメントが加えられている。単に大胆なだけでなく、伊万里磁器の雰囲気を随所に残しながら繊細な図線文様を保っている。本品は旧スポード窯時代のデザインを忠実に踏襲しており、ほとんど変更は加えずに再生産を行っている。ただし原題にはない小文字の「r」によるイニシアル図柄が付加されており、1852年以来コープランド社が精力的に実施した古磁器復刻事業の一連のシリーズを、1874年頃迄に注文により追加生産したのが本品であると考えられる。本品のパターン・ナンバーはD7911で、コープランド社ではD番台のパターン・ナンバーを1850年代から導入し、1874年にナンバーを切り替えている。
 形状もほぼ忠実な復刻となっており、カップは旧スポード窯の特徴である「キックト・ハンドル付きのビュート・シェイプ」で、ソーサーは中央に窪みがない、ビュート・タイプの深皿形式になっている。
 






コープランド
1891年 商標登録された通常のコープランド社の窯印
コーヒー・カップ:H=66mm、D=67mm/ソーサー:D=124mm
 本品は極めて優れた造形によって知られるカップ&ソーサーで、コープランド社が1880年頃にデザインして「クイーン・アン・シェイプ」という名称で意匠登録した作品である。当初は当時コープランド社が高級品ラインとして最も力を入れていた「アラベスク文様」専用の型として開発されたが、1890年代〜20世紀になると、様々な普及品の絵柄を施した製品も販売するようになった。
 「アラベスク」とは「アラビア風の」という意味で、主にイスラム教寺院の内壁装飾やペルシア絨緞の図柄、オスマン・トルコのイズニーク陶器などの絵柄をコピーしたデザインを指す。コープランド社ではこうしたイズラミックな意匠で、数種類の色違い盛り上げ金・プラチナ彩やチェイシング(磨き金文様)、エナメル・ジュールなど、大変手の込んだ豪華な仕上げを施した作品を製作した。
 本品と同じ形状でアラベスク柄の作品が、「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」p.95、「アンティーク・カップ&ソウサー」p.172 に掲載してある。また「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」p.94にもイスラム柄のコープランド社製品が掲載してある。書籍採録のこれら三点は、いずれも極めて高度なテクニックを用いた名品であるため、是非ご参照いただきたい。

 ここでは特別な図柄は用いず、造形の枠線に添った太い金彩と、鮮やかなネイビー・ブルーに白エナメルのジュールを繋いだ縁装飾を施した、若々しい雰囲気の爽やかな作品を紹介する。縦に二本の太い紺色の線が四か所見えるが、カップのこの部分はW状にへこんだ造形で、一方ソーサーでは同じW状だが隆起した造形になっている。
 ソーサーの井戸周りとカップ高台上部の裾周りには、鱗状のスケール文様(鳥の羽状文様)が凹凸でレリーフ仕上げされており、この部分には薄い藍色が塗られている。このような立体造形がもともと設定されていることからも、本品のモールド(原型)がアラベスク柄専用のものであったことを物語っている。
 






コープランド
1853年頃 1851年以降使用されたコープランド社の通常の窯印
コーヒー・カップ:H=73mm、D=65mm/ソーサー:D=136mm
 コープランド社の前身は、スタッフォードシャー窯業群の筆頭企業スポード社である。1827年にジョサイア・スポード二世が亡くなると、会社は息子のジョサイア・スポード三世に引き継がれたが、ジョサイア三世は二年後の1829年に、蒸気機関の歯車に巻き込まれた怪我がもとで急逝してしまった。
 その四年後の1833年に、ジョイサイア三世の遺産管財人・遺言執行人からスポード社を購入したのが、ウィリアム・テイラー・コープランドである。
 ウィリアム・テイラー・コープランドはロンドン市議会議員となり、後にロンドン市長に就任した人物である。彼の父ウィリアム・コープランドは、1795年頃からスポード社のビジネス・パートナーを務めており、有り余る資産の利殖先として、スポード社への投資を選んだのであった。スポードの工場は四万五千平米(約十一エーカー)、従業員は一千人の大企業だった。ウィリアム・テイラー・コープランドは、スポード社で営業セールス部門のトップを務めていたトーマス・ギャレットを株主に迎え、社名を「コープランド&ギャレット」として経営をスタートした。
 この間、製品の芸術性はおおむねスポード時代のスタイルを踏襲したが、カップ&ソーサーの造形デザインには大幅な変更と新デザインが追加された。これらの食器は合理的な考え方で作られ、三種類のカップに三種類のハンドルを付け替えた、計九種類の造形バリエーションに、エンボス装飾の有無によって、十八通りの意匠を得るというものであった。
 またコープランド&ギャレット期の重要な出来事の一つに、パリアン・ウエアの開発がある。これは可塑性に富んだ彫刻用の素材で、長石を約70%含有し、大理石のような質感を持つ。大抵は釉薬なしで、ビスケット焼き状態で仕上げられた。
 1847年にトーマス・ギャレットが引退すると、社名は「W.T.コープランド、レイト・スポード」となって 1867年にウィリアム・テイラー・コープランドの息子達が参入してくるまで続いた。

 本品はギャレット引退後に単独経営となったコープランド社が、1853年頃に意匠登録し、1858年頃迄の五年間に製作した、チェルシー写しのカップ&ソーサーである。
 1851年に開催されたロンドン大万博で、金賞、銀賞ともに逃した英国窯業陣を見て、大陸磁器窯と国内窯業との大きな技術的差異に驚いたヴィクトリア女王は、大陸工芸の脅威を払拭するために、1852年、ロンドンのサウス・ケンジントンに世界初の装飾工芸博物館(現・ヴィクトリア&アルバート・ミュージアム)を建設し、18世紀磁器の有力コレクターであったシュライバー夫妻の寄贈品を中心に、王室コレクションの一部などを一般公開して、職人達の手本とした。
 コープランド社ではこの機会に乗じて、18世紀の名窯の完全コピー品をいち早く商品化する作戦に乗り出し、次々に古窯の磁器デザインを意匠登録した。本品はそのうちの一つである。地色、花絵、カップとハンドルの形状までそっくりに写されたこの作品の元は、1760年頃にロンドンのチェルシー窯で作られたカップ&ソーサーである。
 もしお手元に、マイケル・バーソード著の「英国製カップの概要(ア・カンペンディアム・オブ・ブリティッシュ・カップス)」という書籍があれば、それを参考に御覧いただければ面白いと思う。
 まず上記の書籍の写真6にチェルシーが写っている。この作品にはカラー版の掲載もあるので、そちらを参照してみると、コープランド社の巧妙なコピー技術が見てとれる。ハンドルの形状は実に精巧に造形されており、カップの形は違うが、本品と全く同じ、細身でストレートなチェルシー製コーヒー・カップも残されている。カラー版では黄色が大分薄くなって見えるが、これは黄色顔料の経年変化によるもので、今後もますます色は消え飛んでゆくものと思われる。一方本品には、濃く強い黄色の地色が施されている。これは1853年当時、製造されてからまだ百年を経ていないチェルシー窯の製品が、このような黄色を呈していたことを示している。チェルシーの製造当初の姿を伝えているという意味では、このようなコピー作品にも意義がある。花絵も写真6と同様の赤紫色の花に緑色の葉が描かれている。
 ヴィクトリア&アルバート・ミュージアムに始まるコピー・ブームの作品としては、同「英国製カップの概要」の写真1220に、コープランド社が本品と共に製作した一連のシリーズの中の一点が写っている。こちらもチェルシーの完全コピーである。さらに写真1219には、カー&ビンズ、ウースターがやはり1853年頃に製作したセーヴルのコピーが写っている。また写真1142には、1853年頃にミントンが製作したセーヴルの完全コピー品が写っている。
 その他、「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」 p.182下に、コープランド社が作ったセーヴルのコピー品、 p.183にミントンが作ったセーヴルのコピー品(元の形状のセーヴルは「アンティーク・カップ&ソウサー」p.21)、カー&ビンズ、ウースターが作ったセーヴルのコピー品が「アンティーク・カップ&ソウサー」 p.120、「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」p.47(セーヴルの真正品がp.46)に掲載してあるので、ご参照いただきたい。
 こうしてみると、1852年のサウス・ケンジントン・ミュージアム(ヴィクトリア&アルバート・ミュージアム)開館直後から、各社はこぞって18世紀の名窯作品のコピー商法を取り入れ、1853年以降は古磁器の模倣作が一気に市場に供給され、コピー文化が急速に広まっていったことがわかる。この現象を、これまで一般に目にすることがなかった昔の芸術作品に触れて、職人魂を刺激された、という好意的解釈に結び付けるのは難しい。当時の工芸界に蔓延していた気質により、誤った方向性を選択したと見るべきである。こうした動きは大陸においては、より悪辣な贋造活動へと進展し、意匠デザインのみならず窯印までコピーした贋作品が市場で幅をきかせることになっていった。→資料室
 

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