チューリヒ
1765〜70年 染付でZの窯印
ティー・ボウル:H=46mm、D=77mm/ソーサー:D=124mm

 チューリヒ湖畔にある現キルヒベルク駅から南下したバーンホフ通り近辺に、1763年に建設されたのがチューリヒ窯である。チューリヒの北方、ドイツとの国境近くの街シャフハウゼン出身のアダム・シュペングラーを中心とする株式会社形態で、磁器とファイアンスの製造を目的としていた。この窯は王侯貴族の財政的庇護を受けない民窯である。筆頭株主のアダム・シュペングラーは、チューリヒ窯を開設する以前にヘクスト窯に職人として雇われて、磁器製造経験を積んでいた。
 チューリヒ窯は開設当初から高品質の磁器製品の供給を目指していたため、当時のヨーロッパで名が知られていた一流のアーティストを積極的に招聘した。中でも最初期のメンバーとして最も名高い人物に、ザロモン・ゲスナー(1730〜88)がいる。
 ゲスナーは独特の「田園文学」を標榜する作家・詩人で、彼の代表作には「ダフニス」(1754年)、「牧歌集(田園詩集)」(1756と72年)、「アベルの死」(1758年)などがある。ザロモン・ゲスナーの父は書籍の印刷出版・販売業を営む富裕な実業家で、ザロモン自身も自作の文学作品を出版するためにこの会社を利用した。ここで製作される彼の自著には、挿絵としてザロモン本人のエッチング版画が使用されていた。したがってザロモン・ゲスナーは、田園風景画家でもあり、エッチング銅版彫刻師としても優れた腕前を誇っていたのである。そのためゲスナーは、チューリヒ窯での造形デザインと原画製作の他に、職人達と共にチューリヒ磁器に自ら絵付けする現場仕事を、実際にしばしば買って出ていた。「1765」の年記と彼のサインが入った磁器作品が今日に伝わっている。
 資産家で文化人であったゲスナーは、チューリヒをあらゆる宮廷文化を越えた芸術の発信地にしようと考え、チューリヒ窯の磁器事業にも収支を考えない経営投資を惜し気もなく行った。これは彼が芸術に対する出費を苦にしない、「パトロン」という風習・考え方を身に着けていたためだと考えられる。このことを示す一例として、ゲスナーは1766年、ヨーロッパ中を旅する天才音楽家少年として大人気だった、当時十歳のモーツァルトをチューリヒの私邸に招き、同地での公開演奏会に先立ってプライヴェート・コンサートを開かせた。このときゲスナーはモーツァルト父子に対し、チューリヒの街にこないか、と提案したという。無論これは、ゲスナーがモーツァルトのパトロンになるという意味を含む。つまりザロモン・ゲスナーという人物に限っては、一般的に考えられる磁器窯の「絵付け職人」として扱うことはできない、ということになる。
 このときゲスナーは、モーツァルトに自作の著述集四巻を贈呈した。この本のうち第一巻と第二巻は、モーツァルトの死後、決して多からぬ遺品の蔵書の中から発見され、そこにはモーツァルトの父レオポルトとその妻に宛てたゲスナーの自筆による献呈の言葉があった。ゲスナーは少年モーツァルトを「国民の栄誉」と表現し、天賦の才能を賛える文言を書き込んでいる。
 やがて1770年代にはいると、ウィーンからヨーハン・ダフィンガー(〜1796)という大物絵付け師が招かれた。ダフィンガーは第二期ウィーン窯(帝立時代)において、主に花絵を描いていた絵付け師で、ウィーン風の薔薇絵などの原形をデザインしたといわれる。彼はオーストリアで最も高名な画家となったモリッツ・ミヒャエル・ダフィンガーの実父にあたる。息子のモリッツ・ダフィンガーはウィーンの宮廷絵師で、ミニアチュール肖像画の名手としてもてはやされた。彼が残した絵画は、ハプスブルク家一門関係者の肖像作品だけでも一千点を越えるといわれる。
 花絵専門のダフィンガーとともに活躍したのは、1771〜81年まで在職したハインリヒ・フュスリ(1755〜1829)である。彼は風景画の名手で、初期チューリヒ窯の風景作品の趣向をリードした。フュスリの兄は幻想怪奇的な画風で誰もが一度は目にしたことがあるだろうロマン派の画家、ヨハン・ハインリヒ・フュスリ(英名ヘンリー・フューズリー、1741〜1825)である。兄弟はチューリヒの生まれで、弟ハインリヒ・フュスリは十六歳でチューリヒ窯に徒弟として入窯し、ザロモン・ゲスナーの田園風景画を学んだとみられる。ロマンティックを極めた彼の作風と性格から、後にフュスリは珍奇・特異な文物に魅了されるようになり、スイス随一の古物収集家として有名になった。
 また1775年には、ルートヴィヒスブルク窯からヨーハン・ヴァレンティン・ゾンネンシャイン(1749〜1828)が主任造形師として招かれた。彼は建築壁面の漆喰彫刻師ルイージ・ボッシの弟子で、ヴュルッテンベルク公爵家の宮廷漆喰師でもあった。またゾンネンシャインは、ルートヴィヒスブルク窯在職中に、画家・彫刻家でルートヴィヒスブルク窯の製磁最終奥義修得者、絵付け師、磁器原型造型師として名声を恣にしたヨーハン・クリスティアン・ヴィルヘルム・ベイヤー(1725〜1806)からも、磁器モデラーとしての仕事を学んだ。ベイヤーは1759年にヴュルッテンベルク公爵家の宮廷に招かれ、1760年に開設された同公爵家所有のルートヴィヒスブルク窯でも、彫刻の腕を生かして活躍していたと考えられている。その後ベイヤーは1768年にウィーンの宮廷画家・宮廷彫刻家の要職を得てルートヴィヒスブルク窯を去り、シェーンブルン宮殿内に居室を構え、栄光のうちに同地で没した。ゾンネンシャインは1779年までチューリヒ窯に在職し、まもなく開窯したニヨン窯でも造型師として雇われた記録がある。その後はベルンに移り、亡くなるまで彫刻家としての仕事を現地で続けた。
 チューリヒ窯の全盛期は、豊かな資金を持った好事家達が株主となり、名の通った芸術家を全欧から集めることができた1763〜80年頃までであった。1760〜70年代前半にかけての磁胎と釉薬はクリーム色がかった品質で、磁器の見た目はデュ・パキエ時代の第一期ウィーン窯によく似ている。製磁材料のカオリンは、仏独国境近くに位置するロレーヌ地方産であった。
 1770年代後半になると、磁器の品質は格段に向上して白くなったが、これに反して絵付けの水準は低下し始め、1780年代前半には風景画すら量産の対象となり、銅版転写プリントを導入して絵付けの製造コストを抑制するようになった。チューリヒ窯は創業からこれまでの間、収支の黒字が達成されることは遂になく、1788年にゲスナーが没した後はさらに経営状態が悪化して、資金繰りに行き詰まるようになった。職人達も好条件に釣られて、1781年に開窯し1789年に新工場を建設したニヨン窯に引き抜かれるなどして、チューリヒを去っていった。
 やがて1790年に創業者のアダム・シュペングラーが没すると、息子で同窯の天才的原型彫刻師だったヨーハン・ヤーコプ・シュペングラー(仏名ジャン・ジャック・スペングラー)も、同年にチューリヒを離れてロンドンへ移った。創業者の一族すら窯を去る状況となったため、チューリヒ窯では1790年には磁器製造がほぼ不可能となり、在庫白磁に絵付けを行って売る程度の業態に営業を縮小したとみられる。
 フランス革命やナポレオン戦争の影響も被った経営不振の中、1793年からマティアス・ネーラッヒャーが窯を指導し、彼の死後はハンス・ヤーコプ・ネゲリ(ネジェリ)が筆頭株主となって会社を率いたが、ネゲリは磁器に興味がなく、ファイアンスとストーンチャイナを好んだため、チューリヒ窯における製磁事業は事実上の終焉を迎えた。
 チューリヒを捨てたシュペングラーはロンドンに到着し、現地で大変有力な時計細工商だったベンジャミン・ヴリアミー(1747〜1811)の仲介で、ダービー窯の造型師としての職を得た。ベンジャミン・ヴリアミーは、フランス系スイス人の父フランソワ・ジュスタン・ヴィヨーム(英名ジャスティン・ヴリアミー、1712〜97)が、時計製造の勉強のため1730年代にロンドンを訪れ、同地に定住してベンジャミン・グレイ(1676〜1764)とともに始めた時計商の二代目である。ジャスティンはグレイの娘メアリーを娶って男子をもうけ、この子に母方の祖父となったグレイから名前を貰って、ベンジャミンと名付けた。ヴリアミー一族はジョージ二世、三世、四世の御用達時計師となり、孫の三代目ベンジャミン・ルイスの時代まで高級装飾時計を製造して商売は繁栄した。ベンジャミン・ヴリアミーはフランス系スイス人の子であった縁故から、時計と組み合わせて販売する目的で購入していた磁器人形の仕入れ先であるダービー窯に、同じ境遇のシュペングラーを紹介したのであった。
 シュペングラー(英名ジョン・ジェイムズ・スペングラー)は、その磁器彫像原型をフランチェスコ・バルトロッツィ(1725〜1815)の銅版転写版画から影響を受けたスタイルで造った。バルトロッツィはフィレンツェの生まれで、ヴェネツィアとローマで銅版転写版画技法を学んだ。1764年以降はロンドンに定住し、英国で最も名高い転写銅版彫刻師となった。彼は「聖母子像」や「エロスとプシュケー」などの人物題材を得意としたため、シュペングラーの彫像にもバルトロッツィの画風がインスピレーションを与えたのだった。またバルトロッツィは精巧なフルカラーでの銅版転写多色印刷技術を発明し、全欧に知られるようになっていった。バルトロッツィは1768年の英国王立アカデミー創立メンバーで、1802年には転写版彫刻家協会の会長となった。同年リスボン国立アカデミーに招かれてポルトガルに渡り、1815年に同地で没した。
 シュペングラーはバルトロッツィの他に、アンゲリカ・カウフマン(英名アンジェリカ・カウフマン)の絵画や版画からも人物姿態を巧妙に写し取り、英国磁器彫像界に残る名品を生み出した。現在、シュペングラー原型、ダービー製ビスケット白磁、ベンジャミン・ヴリアミーの金工・時計を組み合わせた名品が、英国のロイヤル・コレクションに収まっている。
 シュペングラーは1796年頃にダービー窯の職を辞し、以後はロンドンのチェルシー地区に住んだ。

 本品はチューリヒ窯の全盛期に製作されたティー・ボウル&ソーサーで、クリーム色がかった滑らかな釉薬が特徴である。絵柄はイタリアに由来するクラシックなスタイルで、陶器らしき黄色の広口花瓶と、赤い実と緑の葉を盛った陶皿が二か所ずつ描かれ、花を繋いだタペストリー風の垂下文様二種類が、交互に描かれている。筆遣いは細く精密で、金彩も使用され、鮮やかな顔料が開発されていたことがわかる。薄い黄色、朱赤、濃い青などは、ウィーン窯とほぼ同じ顔料が用いられている。

 

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