ウェッジウッド
1812〜29年 オレンジ色のプリントで WEDGWOOD の窯印
ティー・カップ:H=57mm、D=79mm/ソーサー:D=141mm
 オーヴァル・リング・ハンドル(楕円形)付きのビュート・シェイプのカップで、薄くて軽いボーンチャイナに白く滑らかな釉薬が均一にかけられている。ソーサーはカップと同様に高台がなく、碁笥底に作られている。
 図柄は蓮の葉の上に梅瓶(メイピン)型の朱色の花瓶が置かれ、中央に金彩で糸巻きがあしらわれている。文様で金彩の使用はこの部分のみである。また花瓶には向かって右方向から光が当たっているようなグラデーションが付けられている。花瓶の左右には朱の濃淡で蓮の花が描かれ、余白にはピンクと黄色の小菊、横向きの蓮の花、芙蓉牡丹風の菊花が描かれている。カップ見込みとソーサー中央には桃の実が描かれ、中国磁器(景徳鎮など)のデザインを比較的忠実にコピーした意匠でまとめられている。外線のみ黒のプリント絵付けで、色は手彩色で仕上げられている。
 ウェッジウッド社の第一期ボーンチャイナ(1812〜29)には、中国人図や染織風文様などシノワズリ趣味の作例が多く残されている。しかし1811〜20年のリージェント時代(後のジョージ四世が摂政だった期間)には、英国独自の伊万里アレンジ柄は流行したが、本品のように中国磁器の原題に忠実なシノワズリ文様は、古いスタイルとして飽きられていた。当然このようなデザインを持つ作品の製造は失敗に終わり、ボーンチャイナはウェッジウッド社に潤沢な売り上げをもたらすことはなかった。「磁器=中国」という意識が強かった同社では、本品のように全く時代遅れな意匠の作品を中心に製造を続けたため、ボーンチャイナ事業はすぐに衰退し、製磁開始から十七年後の1829年には、同社の磁器製品は市場から姿を消すことになった。
 本来は陶器専門のメーカーだったウェッジウッド社が、1812年から焼き始めたボーンチャイナは、今日の視点から見れば白く清潔な磁肌で、図柄にも魅力がある。本品では特に、副次デザインである菊花や桃が、メインの花瓶・糸巻き・蓮の花葉に比べて精巧に描かれ、中国磁器の雰囲気を上手く伝える役割を果たしている。
 現代のウェッジウッド社では、この絵柄のティーポットやティーカップを2005年に復刻発売している。
 



ウェッジウッド
1812〜29年 朱色のプリントで WEDGWOOD の窯印
ティーカップ:H=57mm、D=81mm/ソーサー:D=140mm
 ビュート・シェイプのカップにオーヴァル・リング・ハンドルが付けられている。カップ、ソーサーともに、通常の英国製ビュート・シェイプの作品よりも一回り小振りに作られている。
 絵付け、金彩ともにプリントによる仕上げで、色数が多く、グラデーションもあり、緻密な線で描かれている。花は牡丹のようだが葉に違和感があり、鳥は翡翠(カワセミ)のようだが、羽に違和感がある。金彩は中国由来の菱形文様になっている。清朝磁器の粉彩絵付けを写したデザインで、余白を生かした画面構成によって中国磁器の絵柄の特徴をよく掴み取ってはいるが、1810〜20年代のデザインとしては、流行遅れでかなり古臭い意匠のうちに入る。
 しかし鮮やかなプリントと美しい釉薬は、このカップ&ソーサーの存在感を高めており、ウェッジウッド社の初期磁器の風姿を味わえるという意味からも、愛すべき佳品と評するべきであろう。
 




ウェッジウッド
1812〜29年 茶褐色のプリントで WEDGWOOD の窯印
ティーカップ:H=60mm、D=87mm/ソーサー:D=142mm
 イギリス窯業界の巨人ジョサイア・ウェッジウッド一世は、生涯に一度も磁器製造を試みることなく1795年に亡くなった。ジョサイア一世の時代のウェッジウッド社は、優れた陶器やストーンチャイナ専門のメーカーとして経営され、パール・ウエア、ドラブ・ウエア、クリーム・ウエアなど、ユニークで採算性のよい新素材の特許を取得し、またジャスパー・ウエアのように装飾的で高級な素材も開発して、会社は順調に発展した。
 ジョサイア一世は陶器製造だけで十分な利益を享受していたため、敢えて磁器製造に挑戦する意味を見出さなかったのだ、というのが、従来の陶磁器学者による無難な見解である。しかし18世紀半ばのベンチャー企業時代から始まり、18世紀末〜19世紀初頭にかけて英国を代表する巨大産業、優良事業となった窯業各社を見渡した時、「既に儲っていたから新事業に投資しなかった」という理屈には説得力がない。儲っているからこそ、その資金を投下して新素材を開発し、更なる発展と成長を遂げようとする余裕が生まれるのが、企業理念の常道である。
 ジョサイア一世が亡くなる1795年までは、スタッフォードシャーのスポード社も陶器しか作っておらず、ボウ、チェルシーは既になく、カーフレイやロウストフト、ダービーやウースターなども経営成績が徐々に悪化しており、英国内には目立った磁器系ライヴァル企業がなかった。しかもジョサイア一世は、こうした磁器産業の弱体化を見て、他の磁器メーカーを潰せると考えていたらしい。彼は1770年代に英国で唯一硬質磁器を作っていたブリストル窯に対して起こされた、特許権更新の不服申し立て訴訟の中心人物だったし、ブリストルの経営者であったリチャード・チャンピオンから、特許権買取に関する内々の提案があった時も、これを退けた。このことからしてジョサイア一世には、磁器を作らないことへの妙な拘りがあったか、磁器製造に対する拒否反応、あるいは嫌悪感を抱いていたと思われる。
 英国の磁器メーカーの苦戦の背景には、1789年に勃発したフランス革命と、それに続くナポレオン戦争の影響が明らかにあった。こうした販路途絶の状況下にあって、ひとりウェッジウッド社だけが、戦争の続くヨーロッパ大陸に大量の製品を供給していた。ジョサイア一世の好みであったネオ・クラシック様式が、フランス革命以前から大陸の装飾美術界で支持を拡大し、特にロココ様式が滅んだ後にナポレオン色一辺倒となったヨーロッパ装飾工芸界の趣味と要求に合致したのである。当時破産状態だったマイセン窯では、1774年以降カミーロ・マルコリーニ伯爵による再建計画の中で、ウェッジウッド社のジャスパー・ウエアの忠実なコピーを磁器で作り、クリーム・ウエアを模造するための黄色い釉薬を開発した。また革命直前のセーヴル窯で作られたジャスパー・ウエアの模作品(青地に白貼花人物文)が、大英博物館に収蔵されている。このようにドイツでもフランスでも、ウェッジウッドの計り知れない影響の下で磁器製品の様式が選択されていった。
 ところでプリマス閉窯後、ジョサイア一世本人がコーンウォールの鉱山を視察に訪れ、硬質磁器式の焼き物にも一応の興味を示したことがわかっているが、この時彼は、コーンウォールの土は劣質のため買わない、使わない、と述べている。またジョサイア一世の書簡の中に、磁器産業は不採算になりそうだから興味がない、という旨の記述があるので、投資対象としては磁器製造には魅力がなく、むしろ会社の足を引っ張りかねない事業と見ていたという側面は否定できない。
 しかし磁器製品を求める時代の声は、着実に高まっていた。ジョサイア一世の死の直後から、チェンバレン、スポード、ミントン、ダヴェンポート、コールポートなどが擬似硬質磁器(ハイブリッド・ハードペースト)やボーンチャイナを作り始め、彼の没後十五年を経るか経ないかのうちに、これらの企業は英国を代表する大企業に伸長し、王室の訪問を受けるまでになってゆく。やがて到来する磁器全盛時代の足音に、ジョサイア一世は気付かずに死んだ。
 ウェッジウッド社はジョサイア一世の息子ジョサイア・ウェッジウッド二世が継ぐことになり、彼は手始めに1796年、スタッフォードシャー窯業群全体で陶土を独占的に使用できるカルテル「ポターズ・クレイ・カンパニー」を作り、他の窯業者との協調路線を取った。ウェッジウッド社はブリストルとの裁判問題以来ニューホール窯関係者との縁故が深く、この「ポターズ・クレイ・カンパニー」にもニューホール社を大株主で迎えたほか、1800年にトーマス・ミントンが設立したコーンウォールのカオリン鉱脈独占使用カルテル「ヘンドラ・カンパニー」にもニューホール窯関係者らとともに株主で資本参加した。
 こうして他の同業者からの様々な情報にさらされたジョサイア二世は、父が手を出さなかった材土や、自社にはない焼き物、すなわち磁器製造に対する強い憧れと興味を持った。そこで他社に遅れること十年以上の1812年、ジョサイア二世は遂にボーンチャイナ製造に踏み切った。これはウェッジウッド社初の磁器焼成の出来事である。
 しかしジョサイア二世が作るボーンチャイナはさっぱり売れなかった。この事業の失敗が明らかとなるのに、最初の五年間さえも要しなかったと言われる。市場もウェッジウッド社製ボーンチャイナには冷たい反応しか示さず、一時的にせよ人気を獲得したというような証拠はない。特にディナーウエアとデザートウエアは大失敗に終わった。唯一細々とながらも売り上げを保ったのはティーウエアであった。
[注:イギリスでは食器を「ディナーウエア」「デザートウエア」「ティーウエア」の三種類に大別する。より細分化した「モーニングサーヴィス」などの分類もある。]
 ここで疑問となるのは、ジョサイア二世のボーンチャイナがなぜ売れなかったのか、という理由である。
 ウェッジウッド社のボーンチャイナは磁胎と釉薬が極めて高品質であった。非常に薄くて光が透き通るような軽い焼き物に、ひびがなく磁胎によく融着した薄いうわぐすりがかけられている。しかもこの釉薬は大変白く表面が滑らかで、容易に茶渋を受け付けない。カップやハンドルは飲みやすく持ちやすい形状に工夫されている。となると当時の市場は磁胎や釉薬の素晴らしさには関心がなかったか、優れた品質の焼き物ならばスポードやミントンなどの他社でも作っており、大して珍しいものではなかったという結論になる。
 次に絵付けだが、ウェッジウッド社製品が他社製品と違っていた最大の特徴が加飾(色絵・金彩)で、ジョサイア二世はプリントで絵付けを行うよう、製造現場を強力に指導していた。ジョサイア二世はボーンチャイナ製造が開始されてから二年目には、早くもこの事業の商業的成功を諦める意思を示し、以後はプリントの使用による絵付けのコストダウンによって赤字を減らす対策とした。
 1796年に設立されたピンクストン窯は、紆余曲折を経てダービー窯出身の絵付け師であるジョン・カッツが経営していたが、1813年、カッツはピンクストン閉窯とともにこの地を去り、ジョサイア・ウェッジウッド二世を頼って、1816年迄ウェッジウッド窯の絵付け師となった。この時のカッツを評したジョサイア二世の手紙(メモ程度のもの)が残っており、その中で彼は「カッツのやり方では今の時代には合わない。あの程度の絵付けならプリントで作ってしまったほうが安上がりだ」という内容を述べている。手描きに相応する賃金を支払っていたら、とてもそのような高額では時代遅れの作風の製品は売れない、ということである。ジョン・カッツの絵は「脂派」ともいうべき渋く暗い風景画で、実際ウェッジウッド製品にはカッツ筆の風景画の作例がある。
 したがってウェッジウッドのボーンチャイナ製品に、手描きのものはほとんどないと言ってよい。どんなに高級そうにみえる作品でも、色絵付けは大概プリントで行われている。
 ではそのプリント絵付けの品質はというと、これが意外にも極めて高品質なのである。「さっぱり売れなかった」というデザートウエアのプレートには、しばしば大きな花絵のプリント絵付けが施されたが、これらの花は写真で見る限りは手描きに見える。近くで詳しく見ればもちろんプリントと判るが、発色は非常に鮮やかで、色数も多く、微妙なグラデーションも精妙で、いきいきとした存在感溢れる花が、立体的に細かく描き込まれている。手描きと比べて遜色ないプリント絵付けを達成していたウェッジウッド社の色絵は、購入意欲をそぐ原因ではなかったと言える。
 その一方で、安手のティーウエアには、明らかに手を抜いたプリント絵付けによる作品が残っている。オレンジと紺色で染織風の花絵をプリントしたものや、フライト・ウースターを模した小さな単色の花絵プリントなどといった、いかにも侘しいデザインのカップ&ソーサー類は、やはりその絵付けのまずさによって評判が悪かった。
 それにも増して最大の失敗要因は、金彩だった。1810年代はフランス風の豪華な金彩に最も需要があり、こうした絵付け・金彩の技術を持っていたのはロンドンに集まった絵付け専門工房であった。トーマス・バクスターやウィリアム・ポラードなどはウェッジウッドのプリント花絵とは一味違う、独特の絵付けを行ったが、その花絵の魅力よりも金彩の技術とデザインの差により、ウェッジウッド社は敗北したと見られている。ウェッジウッドを打ち負かした最大のライヴァル企業はウェールズのナントガーウ窯で、この窯はロンドンの絵付け工房に大量の白磁を売ると共に、自窯内でもフランス風の金彩(しばしば文様の中にも金彩が入り込み、金彩文様がデザインの一部となる。→ナントガーウのページ、→ダヴェンポートのページ参照)を施した作品を製作し、ウェッジウッド製ボーンチャイナの販路を両面から絶った。
 ウェッジウッドの金彩デザインは絵柄から独立しており、金彩装飾が絵柄と絡まない。畢竟、金彩文様はシンプルで大人しくなり、ウェッジウッド社が伝統的に持っていたネオ・クラシック様式の硬くてそっけない風情から抜け出すことができなかった。
 1812年にナポレオンがモスクワから敗退すると、フランスでもネオ・クラシック様式は飽きられて古くなり、ナポレオンが失脚してブルボン王朝による王政復古が成った後は、装飾様式も第二ロココ様式が復活する。ジョサイア二世はそのような時代を生きた人物であり、大陸からの影響にもっと配慮しなければならなかった。それに加えてロンドンなど磁器需要の中心地、文化の先端地では、磁器作品に求める購入条件が、白磁の品質よりも絵付けや金彩の豪華さであるという点に気付くべきだった。ロンドンの絵付け工房で作られ、市場で売れている品物の性質を調べれば、このことに思い至ることができたはずである。マーケティング不足で売り損なったジョサイア二世の姿は、現代の企業経営にも通じる反面教師といえよう。
 こうしてジョサイア二世は、1812年に始めたボーンチャイナ製造を、僅か十七年後の1829年迄で打ち切り、磁器製造から完全に手を引いた。挫折した彼はその後の生涯で、ボーンチャイナを焼くことは二度となかった。したがって「ジョサイア二世が完成したボーンチャイナにより、ウェッジウッド社の名声は不動のものになった」などという説は、全くのデタラメである。後にウェッジウッド社でボーンチャイナ製造が再開されるのは、それから四十九年を経た1878年、ジョサイア二世の息子ジョサイア・ウェッジウッド三世が八十三歳を迎える年のことである。

 さてここでは、酸化コバルトによる淡い染付と、上エナメルによる濃紺色を鋸歯状に組み合わせて文様化した、クラシックなスタイルのティーカップを紹介する。この紺色は一見すると染付青のように見えるが、淡青地の上にエナメルで描かれているため、紺色部分は顔料が盛り上がっている。しっかりした手描きの金彩が惜しみなく施されているが、デザインはギリシア風で当時流行のフランス好みの金彩とは全く違い、この時代の作品としては文様が古臭い。
 カップの形状はビュート・シェイプである。
 

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