ニヨン
1781〜1813年 染付手書きで魚の窯印
ティー・ボウル:H=48mm、D=80mm/ソーサー:D=138mm(パンジーとバラ)
ティー・ボウル:H=45mm、D=83mm/ソーサー:D=135mm(バラ)
 スイスのニヨン窯は、レマン湖のほとりの小さな町ニヨンに建てられた。事業は、ベルリン窯で徒弟時代に製磁法を身に付けたヨハン・ヤーコプ・ドルトゥと、その舅でフランケンタール窯の絵付け師だったフェルディナント・カール・ミュラーによって、1781年に始められた。
 ドルトゥはフランス系移民の子として、1749年ベルリンに生まれた。一家はもともとシャンパーニュ地方ヴュー・ダンピエールに暮らしていたが、宗教上の理由からフランスを離れ、ベルリンへとやってきた。フランス系ドイツ人であるドルトゥの名前は「ジャン・ジャック」であるが、ドイツ風に「ヨハン・ヤーコプ」とし、普段は「ヤーコプ・ドルトゥ」と名乗った。後年フランス語圏のニヨンに入り、「ジャック・ドルトゥ」とした。
 ドルトゥは1764年9月、十五歳でベルリン窯の徒弟となり、三年に満たない1767年6月に、カッセルへ出奔した。このとき彼は、既に製磁の秘法を身につけていたとみられる。
 当時のベルリン窯は、フリードリヒ二世(大王)が、ヨハン・エルンスト・ゴッツコウスキーから1763年に工場を買い上げ、王立窯になったばかりの時期であった。その製磁秘法の管理は厳しく、親方ならぬ徒弟の身分では、硬質磁器の材料配分法などを知るよしもなかった。したがってドルトゥは、何らかの手段で秘法を盗み出したことになる。
 カッセルにひと月の滞在の後、ドルトゥはアンスバハ窯で絵付け師の職を得た。1768年までこの窯に留った後ロシアへ旅立ち、1769〜70年にかけてサンクト・ペテルスブルク窯で働いた。この地でドルトゥは、後に義父となるフェルディナント・カール・ミュラーと出会った。1773年、二人は連れ立ってフランスに移動し、ポンタン・レ・フォルジュの窯に雇われたが、これ以降ニヨンで合流するまで行動を別にする。
 ドルトゥはポンタン・レ・フォルジュを短期で去り、1773年、マルセイユにあったガスパール・ロベールのファイアンス窯で真正硬質磁器を焼いた。1777年にフランスを発ってスウェーデンへ行き、ストラルサンドを経てマリーベルク窯に到着した。マリーベルク窯はファイアンスの他にフリット軟質磁器を焼いていたが、ドルトゥはここでも真正硬質磁器を作った。やがて故郷のベルリンに戻って滞在の後、1781年3月、ニヨンへ移動した。
 ミュラーはポンタンでドルトゥと別れた後、1774年にリーユへ行き、ベルギーのトゥルネイ窯を経て、1775年にはバイエルンのニンフェンブルク窯に雇われたとみられる。1778年にデンマークの王立コペンハーゲン窯に入ったが、1779年に再びポンタンに戻り、この地で後にニヨン窯の経営者となるジャン・ジョルジュ・ジュール(ヨハン・ゲオルク・ユリウス)・ツィンケルナーゲルと知り合った。ツィンケルナーゲルはフュルステンベルク窯に徒弟として入窯して製磁技術を修得し、この年からポンタン・レ・フォルジュで磁器を焼き始めた。ミュラーは絵付け技術の指導などの目的で招聘されたとみられる。ミュラーは翌1780年にドイツ圏のマンハイム窯へ旅立ち、やがてイタリアへ南下してナポリのカポ・ディ・モンテ窯に入った後、1781年、ドルトゥと共にニヨンに落ち着いた。
 ニヨン窯は同地のド・ラ・コロンビエール通りに建設され、製磁・加飾ともにドルトゥの知識と技術で製作が進められた。しかし五年後の1786年、ドルトゥは舅のミュラーと諍いを起こした末、ニヨン窯を飛び出して旧地カッセル窯にしばらく逗留した後、故郷のベルリンへ帰った。ニヨンに残ったミュラーは、窯の製磁技術をジュネーヴに移転しようとしたため、ニヨン窯のスタッフの怒りを買い、工場には不和と対立が巻き起こった。ニヨン窯は株式会社経営だったため、1787年、株主合議の末にミュラーを窯から除名して追放処分とした。
  1787年6月、ミュラー放逐の報を受けて、ドルトゥはニヨンに戻った。新体制のニヨン窯で筆頭株主になったのが、前述のジャン・ジョルジュ・ジュール・ツィンケルナーゲルである。間もなくツィンケルナーゲルは、古巣のフュルステンベルク窯があるヴォルフェンビュッテルへ向かうため、1788年に株を売却してニヨンを去り、会社はドルトゥの他にモイーズ・ボナールとアントワーヌ・アンリ・ヴェレが新たに株主となって経営にあたった。この時に獲得した資金をもとに、同年より生産規模の拡大を企図して新工場を建設し、翌1789年より稼働を始めた。
 ニヨン窯の作風は、セーヴル窯第一ロココ時代第二期装飾のスタイルで、特にマリー・アントワネットの好みを反映した小花散らしや花綱などのデザインを多用した。またパリの窯業者が好んだアンピール様式の人物画なども多く手がけた。一方風景画では、同じスイス圏にあったチューリヒ窯から多くの絵付け師を招き、チューリヒ窯のスタイルでドイツ・ウィーン様式の絵付けを行った。
 ニヨン窯の素磁は、ドルトゥが秘法を盗んだベルリン窯式の真正硬質白磁で、フリット軟質磁器ではない。材料には主にリモージュ産のカオリンを使用した。
 18世紀末にはナポレオンの台頭と戦争の激化により、経済的環境や磁器の販路がめまぐるしく変化し、1800年代に入ると焼き物の主役は、パリ窯業群と、それらが作るネオ・クラシック様式にすっかり取って代わられてしまった。ドイツの王立窯と同様に、ニヨン窯でも製品の売り上げは徐々に低下し、パリ風のスタイルを模倣するより他に打つ手がなくなっていった。そこで1813年、ニヨン窯は製磁を断念し、以降は焼き物用の白土を精製・販売する業態に切り替えた。
 ドルトゥは同1813年、製磁の終焉とともにニヨンを離れ、ジュネーヴ近郊のカルージュにファイアンス工場を作った。ここでファイアンスを焼くこと六年にして、1819年、同地で亡くなった。七十年の生涯を土と火に捧げた人生だった。
 一方ニヨンを追われたミュラーには、1808年にニンフェンブルク窯で雇われたという記録が残っている。彼は1727年生まれとされるので、この時八十一歳の老齢にも拘らず、職にありついていたということになる。 ドルトゥとミュラーという女婿と舅の人生を顧れば、この二人は共に行動派であり、進取開拓のエネルギーに満ちていたといえよう。馬車の時代にロシアや北欧まで旅をしたことを始め、ドルトゥが各地で何度も硬質磁器を焼いてみせたのも、ミュラーがヨーロッパ中を渡り歩いて絵付けを指導し、また強引な手法で窯のジュネーヴ移転を試みたのも、およそこのような二人の気質が反映している。会って別れ、再び会ってまた別れたドルトゥとミュラーは、技術を武器に自分に賭け、また自分に挑戦することで次の一歩を踏み出してゆくという、お互いに共通する性格に惚れながらも、譲歩しながら二人で共に進むことは認められなかったということだ。

 ここに掲載した作品は、どちらもティー・ボウル&ソーサーであるが、薔薇絵のボウルは背が低く、腰が張った造形になっている。パンジーが描かれたものは高台にかけてすぼまるシェイプである。ソーサーも薔薇絵は深く曲面的で、パンジーは浅い平面的なモールドが用いられ、ボウルの形状に合わせた組み合わせになっている(「アンティーク・カップ&ソウサー」p.29参照)。
 「ニヨン窯」というと、本品のような小花散らしのデザインが多いと思われがちだが、人物画と風景画も非常に多く、またセーヴル写しの精密で豪華な色絵にも見事な作風が示されている。現在、同地のニヨン城が磁器収蔵館になっており、この窯の優れた作品を多数展示している。

 

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