ハーキュラネウム、サミュエル・ワーズィントン&Co.
1810年頃
 トマス・ウィリアムズ絵付け
コーヒー・キャン:H=61mm、D=61mm/ソーサー:D=137mm
 トマス・ウィリアムズはリヴァプールでは名の知られた磁器上絵付け師、画家で、ハーキュラネウム窯製品の中でも最上等と目される風景画作品を残した。ウィリアムズが描いた風景は、同じくリヴァプールのミニアチュール絵付け師トマス・グリフィスの原画に基づくか、その影響を受けた画風である。
 風景画の周囲には淡い灰青地が施され、カップに二体、ソーサーに四体の農民の姿が、灰色と白のモノクローム絵付け(グリザイユ)で描かれている。この農民図は、本ホームページの「クルーズ窯」でも述べたトマス・ローランドソンの風俗画から影響を受けたものである。
 カップには鄙びた田舎家が描かれ、人物の描き込みはない。ソーサーには岩山の上に残る廃墟の城郭が雄大に描かれ、丘の道には杖を携えた青衣の男性と脇に手籠をおいたエプロン姿の女性が休息をとり、傍らには荷物籠を左右に振り分けた驢馬が佇んでいる。どちらも奥行きのある精緻な描写が特徴となっている。
 白磁の表面を覆う釉薬は白く滑らかでよく輝き、本品が高級な素磁を用いて製作されたことがわかる。ハンドルは上部にサムレスト(親指かけ)、下部に僅かな段差(中指かけ)をしつらえた形状で、「タイプ1」と称される。
 




ハーキュラネウム、サミュエル・ワーズィントン&Co.
1800〜10年
ティー・カップ:H=58m、D=86mm/ソーサー:D=136mm
 ハーキュラネウム(ヘルクラネウム)窯は、サミュエル・ワーズィントンとその友人のマイケル・ハンブル、サミュエル・ホランドらが中心となって、1796年十二月にリヴァプールのトクステスに設立した陶磁器窯である。リヴァプールの街では陶磁器事業が繁栄し、18世紀には二十五窯を数えた工場のうち、ハーキュラネウムはウルフ、メイソン&ルコック(イズリントン・チャイナ・ワークス)と並んで、最も遅く開窯したメーカーである。
 窯名の「ハーキュラネウム(ヘルクラネウム)」とは屋号・商号である。イギリスの窯業者は社名を株主である人名で呼び、工場名は土地や通りの地名で呼ぶのがならわしで、人名・地名以外のセールス・ネームで営業していた窯は非常に珍しい。この名称はイタリア・ナポリ県にあった古代都市「ヘルクラネウム」から採られた。
 ヘルクラネウム(イタリア語で「エルコラーノ」)は、ネアポリス(ナポリ)から南東へ約8km、ナポリ湾岸にあったリゾート都市で、ギリシア・ローマ神話のヘラクレスにちなんで名付けられた街である。『フニクリ・フニクラ』の歌の登山電車で知られるヴェスヴィオ火山の麓にあり、火口からは南西約6.5kmに位置していた。
 そのため西暦79年八月二十四日、ヴェスヴィオ火山の名高い大噴火による火砕流に襲われ、ポンペイとともにヘルクラネウムも地中に埋まってしまった。我々は一般に「ヴェスヴィオ大噴火=ポンペイの悲劇」という認識を持ちがちだが、ヘルクラネウムはポンペイと並立させて考えるべき都市遺跡であり、ポンペイ同様に高度な文化・芸術を備えていた。
 地下に遺跡が埋没していることは、1706年、井戸の掘削によって偶然に発見され、1709〜16年にかけて、井戸用の縦穴から横に掘り進み、数々の彫刻類などを発掘した。1738〜66年には表土を取り除く方法による発掘が始まり、ヘルクラネウム劇場や広壮なパピルス荘などの遺構が姿を現した。1927年以降はより近代的で慎重な発掘が進められ、美しい壁画や公衆浴場などが復元し、現代では世界遺産に登録され、観光地となっている。
 ワーズィントン達は自らの陶磁器工場をヘルクラネウムの街になぞらえ、前を流れるマーシー川をナポリ湾に見立てた。これはジョサイア・ウェッジウッド一世が、エトルリア地方の古代都市国家群に憧れ、中でもタルクィニア遺跡などから出土する陶器作品に触発されて、自らの工場と敷地周辺を「エトルリア」と呼んだのと同じ発想である。他にはロンドンのボウ窯が、イギリス東インド会社の広東商館をそっくりに模したデザインで工場を建築し、前を流れるテムズ川を広州湾に見立てて、自社を「ニュー・キャントン(新広東)」と称した前例がある。
 マーシー川を借景としたハーキュラネウム工場は、もとはチャールズ・ローの金属工場で、主に銅の製錬を行っていた。この工場の敷地と建物は、1796年十一月に五十年間の契約でワーズィントンが借り受けたものだった。敷地内に三棟あった製錬所の一つに三基の窯を建て、他に仕上げ用など二基の窯を建てた。1796年から1800年頃までは磁器を焼かず、陶器専門の窯として経営された。
 ハーキュラネウム窯に所属した職人は、スタッフォードシャー地方の出身者を中心として集めた人々だった。1777年にスタッフォードシャー州とリヴァプールを結ぶトレント&マーシー運河が開通すると、スタッフォードシャー窯業群では水運の利便性から、製品の多くをリヴァプールに送って販売するようになった。同時に多くの陶磁器職人がスタッフォードシャー地方からリヴァプールに移住するきっかけにもなった。このような人材を集めたハーキュラネウム窯は、六十人の職人・スタッフで操業を開始した。
 ハーキュラネウム窯の経営は順調で、1800年には新たに一基の窯を新設した。陶磁器用の材土はウェールズ北部のライムストーン地層を採掘し、それらの粉砕・精製はウェールズ北部の街ナントグレイディオグで行っていた。1806年の記録では馬やフラット(=はしけ)などの輸送手段も含めた動産評価額が4100ポンド余り、アーザンウエアの年間在庫総額が5100ポンド余りで、そのうち4785ポンド分余りを売っている。もちろんこれには数倍の利益を乗せた売価を付けるわけだから、ハーキュラネウムは優良企業だったと考えてよい。
 このような経営状態を受けてサミュエル・ワーズィントンは、1806年に株式会社を設立する。株主は二十八人もいるので全員の記名は避けるが、筆頭株主リチャード・サットン以下、サミュエル・ワーズィントン、マイケル・ハンブル、アーチバルド・キートレイ、サミュエル・ビーリーが同じ出資額で、サミュエル・ホランドはこれらの人々の四分の一を出資した。このような資金調達の結果、同1806年には七基目となる新窯を建設し、以降1817年にかけての全盛期には、工場建物、社宅、船舶用ドック、二隻目の艀、蒸気機関から、職人のためのパン工場までを設置した。1816年に百五十人だった職人が、1820年には二百五十人までに膨れ上がったため、これらの人々の「食と住」も会社が確保して提供していたわけである。
 このような活況を支えたハーキュラネウム窯の商法の視線は、英国国内向け製品の供給だけでなく、北アメリカへの対外貿易にも向けられていた。株式会社設立時の1806年には、工場敷地に直結しているドックからマーシー川経由で北米へ出航した外洋貿易船が、一年でのべ七十七隻にのぼっている。リヴァプール窯業の研究家アラン・スミスは、積荷記録の数や重さから推計して、およそ一万ポンド分、二十万ピースもの大量のハーキュラネウム陶磁器が、わずか一年の間に北米に渡ったと述べている。この金額は工場の全売上の25%〜35%に相当する。こうした販売形態は、他の多くの英国窯業者とは全く違ったバランスといえる。ウェッジウッド社がヨーロッパ大陸向けに大きな販路を獲得していた例と、ダヴェンポート社がヨーロッパ大陸の他にインドや南米にまで製品を輸出していた例があるが、これらはハーキュラネウム窯と違って英国窯業界で五指に入る大企業であり、しかもハーキュラネウム窯ほどの北米依存の傾向は持っていなかった。リヴァプールからハーキュラネウム窯の製品を積んだ船舶が向かった先は、ニューヨーク、フィラデルフィア、ウィルミントン、ボストン、ヴァージニア、ニューオーリンズ、ジョージア、チャールストンなどである。
 ロイズ・レジスターの船舶登録記録を見ると、ハーキュラネウム窯のドックにやってきた船のほとんどがアメリカ船籍の帆船だったことがわかる。つまりアメリカの商人がハーキュラネウム窯の製品を買い付けるために、リヴァプールを訪れていたということになる。
 国内向けにはリヴァプールのデューク・ストリートに「ハーキュラネウム・ウエアハウス」を設けた。この販売店では自社製品のほかに、スポード、ミントン、ヒックス&メイ、イエーツ、マイルズ・メイソンをはじめ、バデレイ、ロジャーズ、ウィリアム・アダムズ等スタッフォードシャー窯業群の製品を仕入れ、トレント&マーシー運河経由で輸送して小売りした。
 しかし好調だったハーキュラネウム窯の収支も、1816年をピークとして1817年以降は次第に悪化し始める。1810年代後半から1820年代を通じて、イギリスの窯業は概して売り上げが減り、経営が苦しかった時期で、1817年までは販売が順調だったミントン社も、1820年代には資本関係の見直しを行わざるを得なかったし、ミントン窯とサミュエル・ホリンズが姻戚関係を結んだニューホール窯でも、1820年以降は経営困難な状態が続いた。ハーキュラネウム窯でも国内向けに陶磁器が売れなくなり、リヴァプールの販売店では新たにガラス製品を仕入れて扱うようになった。そのような不景気の中にあっても、1825年には最後となる八基目の新窯を建設している。
 1820年代のハーキュラネウム窯では、ジョン・ローズ・コールポート窯から白磁を買い、それに上絵付けだけを行ったり、スポード窯と全く同一のモールドによる人形を作ったりしている。ハーキュラネウム窯は主として陶器を焼く業態を一貫して続けており、磁器作品は大変少なく、珍しい。磁器の種類はボーンチャイナのほか、ハイブリッド・ハード・ペースト・タイプの青灰色の擬似硬質磁器や、最高品質の薄手で真っ白な「ホワイト・チャイナ」も作られた。
 1833年、遂にハーキュラネウム窯は資産を競売にかけた。工場設備一式と六十二の社宅、転写用銅版、モールド、船舶用ドックと荷揚げ用クレーンなどが売却された。残った在庫品と陶磁器原材料は、1840年に馬などと共に競売にかけられ、ハーキュラネウム窯は四十四年の歴史に幕を引いた。

 本品は青みを帯びたハイブリッド・ハード・ペースト・タイプの重い磁器で、表面にヒビ(クレージング)のない、やや不透明な釉薬がかけられており、英語で「オイリー」と表現される、滑らかで柔らかい質感をしている。やや下がり気味の独特なサムレスト(親指掛け)と、下辺に弱いキックが一段入った「ハーキュラネウム・ハンドル」が取り付けられたビュート・シェイプのティー・カップである。カップ、ソーサーともに高台を三点の支柱に乗せて持ち上げた宙焼きによって焼成されている。セカンド・クオリティーの白磁だったと思われ、カップの内側に黒く見えるのは後世の汚れではなく、焼成当初からのペッパー状の灰降りである。ハーキュラネウム窯は二級品の陶磁器も一級品に比べてそれほど大きな値引きはせずに、積極的に卸している。これはもともと一級品の価格設定が低かったためで、「安い!」が会社の広告のキャッチフレーズになっている。
 絵柄は明るい染付ブルーと赤絵で描かれた伊万里アレンジ文様が基本で、カップとソーサーに三か所ずつある白抜きの円内には、染付・金彩・赤線で花瓶と花、その花瓶にとまる鳥と蝶が黄・青・紫・黒・赤の五色で描かれている。中国や日本の磁器絵付けをオリジナルとする意匠だが、かなり英国風に手が加えられ、図柄が変化している。
 ハーキュラネウム窯製のコーヒー・キャンが「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」p.92上に掲載してあるので、ご参照いただきたい。
 

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