H.&R.ダニエル
1827年
ティー・カップ:H=48、D=101mm/ソーサー:D=147mm
 この作品の見所は濃いピンク色の地色の上に施されたマーブル(小石)文様である。このマーブルは勢いのある筆捌きで自由闊達に描かれており、同系色を用いたこのような地文様は、19世紀前半のイギリス磁器にはほとんど類例がない。
 白抜きのパネル内には薔薇や朝顔、ガーベラなどの花が組み合わせて描かれている。パネルの枠装飾はロココ風の連続C文様が金彩で描かれている。
 






H.&R.ダニエル
1824〜25年
ティー・カップ:H=44mm、D=98mm/ソーサー:D=143mm
 ダニエル窯の年代不詳の賃金支払台帳には、様々な新顔料を開発した化学者で絵付け師のポイントンと、フルーツ絵で名高いトーマス・スティールが、筆頭職人として記載されている。スティールが何年にダニエル窯に雇われたのかは不明だが、1825〜29年にかけてのいずれかの時期に在職し、その後ロッキンガム窯に移ったとみられる。スティールはしばしば自分の作品のうち大きな画面のものにサインを入れており、ロッキンガム窯が1830年に王室に納品したロイヤル・サーヴィスに、彼のサイン入り絵付けが確認されている。このことからスティールは、1825年頃までダービー窯で働き、やがて優秀な絵付け師の争奪に躍起になっていたダニエル窯に招かれ、1829〜30年頃にはロッキンガム窯からの要請でロイヤル・サーヴィスのような最高級品の絵付けに携わり、1830〜31年にはダヴェンポート窯に短期で在職した後、 1831年3月以降はミントン窯に雇われたと考えられる。トーマス・スティールの参入により、1820年代後半〜1830年代にかけてのダニエル窯の絵付けには鮮やかな果実絵が見られるようになり、もともと豪華だった作品の雰囲気が一層華麗になり、図柄デザインも円熟味を増すことになった。
 本品は1824〜25年にかけてダニエル窯が製造したエトラスカン・シェイプのカップで、ハンドルはアンギュラー(三角)・ハンドルと呼ばれる。紺とクリーム色に塗り分けられた地に白抜きのパネルというデザインは、初期ダニエル窯の典型的作例である。ここでは葉文様の金彩に多色の蝶、カップとソーサーの見込みに桃、洋梨、オレンジ、野苺、プラムなどのフルーツの組み合わせが描かれている。
 カップの外側には金彩で、ギリシアに由来する古典的なロゼット文とS字メアンダー(唐草)文が交互に配されている。
 






H.&R.ダニエル
1824〜25年
ティー・カップ:H=55mm、D=96mm/ソーサー:D=141mm
 この絵柄は、もともとエトラスカン・シェイプのティー・セット用にデザインされたものを、ベル・シェイプである本品に転用したものである。装飾的なハンドルが付いたベル・シェイプはスポード窯でデザインされ(→スポードのページ参照)、1822年に同窯からヘンリー・ダニエルが独立すると、ダニエル窯でもよく似たシェイプのカップが作られた。形状はスポード窯とほぼ共通であるが、ダニエル窯のオリジナルである絵柄が描かれているので、スポード窯製品の欠損補充品(リプレイスメント)ではない。
 初期のダニエル窯では染付紺地に、金彩と薄いクリーム・イエローのパネルを組み合わせた作品を数パターン製作している。本品ではドットの星文を格子で繋ぎ、クラシック様式のアカンサス文やスクロールによる金彩装飾と、ダービー窯風の薔薇一輪を描き入れることにより、端正な仕上がりになっている。
 本品にはコーヒーカップが添っており、トリオのセットになっている。
 






H.&R.ダニエル
1824〜25年
ティー・カップ:H=43mm、D=94mm/ソーサー:D=147mm
 本品はダニエル窯が創業当初の1825年頃に製造した作品で、形状はアンギュラー(三角)・ハンドル付きのエトラスカン・シェイプである。カップは平たく、ソーサー中央部にはカップの高台が収まるように土塁状の輪が作られている。エトラスカン・シェイプに取りつけられたハンドルには三種類あり、本品のようなアンギュラー・ハンドルのほかに、サーペント(蛇型)・ハンドルと数字の7型ハンドルがある(「アンティーク・カップ&ソウサー」p.236 参照)。
 染付による紺地の上には金彩で、アカンサス文と二枚の葉文様が組み合わされ、星文や唐草文などが空隙を埋めている。葉文様は金彩と白抜きの切り返しで塗り分けられている。薄いクリーム・イエローのバンドで三段に縁取りされた白抜きパネル内には、多色の花束が描かれている。カップの外側には染付とクリーム・イエローによるボーダーの上に、金彩で蔓草文様が描かれている。
 なお本品に用いられているパターンは、同時期の他窯にも同様の作例があるので、絵柄だけでダニエル窯製だと判断することはできない。書き込まれたパターン・ナンバーや、形状・材質による比較検討などが必要となる。
 







H.&R.ダニエル
1828〜36年
ティー・カップ:H=52mm、D=57mm/ソーサー:D=113mm
 釉薬に油のような艶がある滑らかなボーンチャイナに、濃い色彩で力強い花が描かれている。顔料の一部(色の濃い部分)は油絵の具のように盛り上がり、筆の跡が見える。金彩ではロココ風のCスクロールと葡萄の葉と実、繊細な連続コーミング(櫛形)文様が施され、バーガンディ(ダーク・ピンク)と薄いクリーム・イエローで地色が着彩されている。意匠全体を通じて、18世紀末に作られたフランス磁器のデザインを写し取ったものといえる。
 カップとソーサーの口縁には、貝殻に似た図案と植物の蔓がエンボス(レリーフ)で立体造形されている。このことから本品の形状を「シェル・シェイプ」と呼ぶ。「シェル・シェイプ」のカップでは、口縁がまっすぐに立ち上がり、立体装飾が外側に施されたものをヴァリエーションA、口縁が外側にめくれ、立体装飾が内側に施されたものをヴァリエーションBといい、本品はBにあたる。
 AとBの違いは単に形状だけでなく、品質による区別もあった。ヴァリエーションAには高級で軽い磁器素材が用いられ、ハンドルも鋭く造形され、細く繊細にできている。それに比べてヴァリエーションBの素材は劣質で重く、ハンドルも同じ造形ながら、Aと比べて見ると細部の作りが甘く、太めで野暮ったい。製造から百八十年が経過した現在では、ヴァリエーションBのボーンチャイナは経年変化で象牙色になってしまっている。このようにダニエル窯では、形状デザインによって高級品と普及品を分けていた。ただし本品の形状が劣等野蛮であるということは全くなく、当時のダニエル窯内で、たまたま劣質な素材を割り当てる形状に指定されてしまったということである。
 またヴァリエーションAとBは、いずれも造形の差を示しているだけで、「A級品」「B級品」という意味ではない。デザインや色遣い、金彩の丁寧な仕事ぶりを見れば、ヴァリエーションBである本品が、決してB級のアウトレット品などではないことは明らかである。
 ダニエル窯の「シェル・シェイプ」の原型である「メイフラワー・シェイプ」の作品が、「アンティーク・カップ&ソウサー」p.62に掲載されているので、ご参照いただきたい。書籍掲載品のようにカップがまっすぐに立ち上がり、貝殻造形が口縁外側にある作品には、高級で白いボーンチャイナ素材が用いられている。
 







H.&R.ダニエル
1829〜30年
コーヒー・カップ:H=63mm、D=79mm/ソーサー:D=146mm
 ダニエル窯のテーブルウエアは、花絵とフルーツ絵で装飾されたものが圧倒的に多く、稀に昆虫が付加的に描かれる。高級品には貝や珊瑚、鳥の羽の絵も用いられた。また花瓶などには鳥の巣と卵、さらに風景画も描かれた。
 ダニエル窯に関連して残された手紙類を読むと、絵付け部門では主に花絵の素晴らしさを追求しようとしており、その経営方針に添った絵付け師達を窯に招聘した。しかも常により優れた人材を捜し求めていた。
 ダニエル窯に在職し、名前がわかっている絵付け師は、五十九人いる。その中で特に名の知られた人物にウィリアム・ポラードがいる。
 ポラードは現在のところ、描いた作品の絵付け師名が判別できるダニエル窯で唯一の職人である。彼はもともとロンドンを中心として活躍した、いわゆる「窯外絵付け工房」の有力職人で、白磁は第二期ナントガーウ窯やスウォンジー窯から購入していた。この両窯は自社工場内での絵付けはほとんどなく、多くが白磁のままロンドンに売られていった。これにポラードをはじめとする窯外の絵付け師達が仕上げを施した作品がたくさん残されている。
 ダニエル窯が創業した1822年は、スウォンジー窯では既に磁器製造をやめており、また第二期ナントガーウ窯がちょうど廃窯になった年でもある。優れた白磁を入手できなくなったこともあり、ポラードは同1822年にダニエル窯に雇われることとなった。これ以後1826年までの四年間、ダニエル窯の絵付け師として活躍した。
 ポラードの色付けは花絵専門で、しかも水彩画のような透明感と、原色ではない燻んだ中間色を持つ花絵が特徴である。彼は従来の花絵の既成概念である薔薇、菫、チューリップ、ポピー、朝顔、ガーベラ、クロッカスなど、いわば堂々とした花はほとんど描かなかった。そのかわりに彼が描いたのは小さく柔らかい野草で、十二種類の植物を描いたことがわかっている。庭造りの中心となる主要な植物は「ガーデン・フラワー」と呼ばれ、生け垣や小道の両脇・境界などに野草的に生えている植物を「ヘッジ・ロウ」と呼ぶ。たとえば一輪描きや花束に描かれる薔薇はガーデン・フラワーだが、「野薔薇」になるとヘッジ・ロウとなる。ポラードはヘッジ・ロウ専門の絵付け師と言ってもよいほど、徹底して野草を画題に選んだ。その中でも彼が非常に好んで頻繁に描いたモティーフが二種類あり、逆にこれは他の多くの絵付け師がほとんど描かなかった植物であるため、ポラードの絵付けと称する作品の真贋を見極める場合の有力な手がかりとなっている。つまりポラードは「彼しか描かない独特の花を用いてサインした」絵付け師であり、彼の作品ははっきりそれとわかる特質を備えているので、ダニエル窯で花絵の作者が特定できる唯一の絵付け師となっているわけである。
 次に名の知られた絵付け師にトーマス・スティールがいる。スティールはスタッフォードシャー出身で、1815年からロバート・ブルーア期のダービー窯の絵付け師となった。彼は後に花絵も描くようになったが、ブルーア・ダービー窯時代はほとんどフルーツ絵専門の絵付け師だった。
 ジョン・ハスレムが1876年に出版した「ザ・オールド・ダービー・チャイナ・ファクトリー」によれば、スティールはダービー窯が廃窯となる1848年の二〜三年前まで、同地に勤めていたことになっている。しかし1831年3月以降、スティールがミントン窯への在籍を続けたことが、同窯の賃金支払い台帳から明らかになっている。またローザーハム・ミュージアムに収蔵されたロッキンガム窯製のトレイの製造年代などにより、スティールが1830年以前からウィリアム四世のロイヤル・サーヴィスの製造で全盛期にあった1830年以後にかけて、ロッキンガム窯に在籍していたことがわかっている。
 さらにダニエル窯に関する少額の賃金支払ノートが発見され、このノートには年号・日付けはないが、トーマス・スティールとポイントンという人物がしばしば交代で筆頭となって登場する。ポイントンとは1830年頃からダニエル窯で重要な地位を占めたと考えられる絵付け師・化学者で、それを示す証拠としてダニエル窯で開発された新しい顔料には、1833年の「ポイントン・クリムゾン」、1835年の「ポイントンズ・マットブルー」がある。したがってトーマス・スティールはミントン窯に入る前、ロッキンガム窯に行く前か後(1830年前後)には、確実に、しかも筆頭絵付け師としてダニエル窯に在籍したことが証明された。
 1830年代のミントン窯は、ブルーア・ダービー窯出身の絵付け師を多く雇い入れている。しかもダニエル窯とミントン窯は友好企業で、職人の交換(出張製作・手伝いを含めて)が日常頻繁に行われたと考えられている。そもそもダニエル窯の工場は、ミントン窯の経営パートナーであるジョゼフ・プールソンの工場を譲り受けたものであり、この工場はミントン窯とは道をはさんだ向い側に建っていた。その他にもダニエル一族とトーマス・スティールの関係が維持されていたことを示す選挙運動関連の記録があり、ミントン窯に移籍後も1832年頃までダニエル窯の製造の手伝いをしていた可能性もあると考えられる。
 またトーマス・スティールはロッキンガム、ダニエル、ミントンと渡り歩く間に、短期であるがダヴェンポート窯にも在籍していた。なおトーマス・スティールの息子で、同じくブルーア・ダービー窯の絵付け師だったエドウィンとホレイショウについては、ダニエル窯に在籍したという証拠はない。この二人の息子のうちエドウィンについて前述のジョン・ハスレムは、1831年にミントンに入窯したとしているが、ゴッデンは1831〜36年にかけて(1836年はトーマス・ミントンが亡くなり、会社の体制がミントン&ボイルに変わる年である)の賃金支払台帳に、エドウィンの名前が一切出てこないので、彼はミントン窯へは行かなかったとしている。
 最後にウィリアム・ペッグ(通称「ヤンガー」)の名前を挙げておく。ウィリアム・ペッグはダニエル開窯当初の1822〜23年にかけて、筆頭絵付け師・マスターペインターとして在籍したと考えられている。
 ダニエル窯の創業当初の事情を記した最も古い資料が、1823年五月にリチャード・ダニエルが父ヘンリーに宛てた手紙で、それによればフィリップスの店(おそらくロンドンの)で製品が非常によく売れてしまったこと、さらに大量の追加注文を受けたことが書かれ、四〜六人の優れた花絵絵付け師を新たに雇ってはどうかと提案している。この手紙に現在雇用中の絵付け師としてペッグの名前が出てくるのだが、リチャード・ダニエルはペッグの半年間の仕事内容に不満であるかのような書き方をしている。だとすればダニエル窯におけるペッグの雇用期間は、一年未満で終了したとも考えられる。
 しかしながらこの手紙からは、当時二十三歳だったリチャード・ダニエルの若さと勢いの一方で、自信家で傲慢な側面も伺える。「[ダニエル窯創業のあおりをくらって]哀れなリッジウェイは商売がボロボロになり、ジョン・ローズ(コールポート)の製品は質が悪く、人は皆不平を口にする」などと書いているので、ペッグのことも低く評価していたか、支払う対価に比べて過大な要求をしていたのではないかと推測できる。
 とにかく投資・拡大に突き進むリチャードの性格がよく現れている手紙であり、後年彼が破産・投獄という転落の憂き目に見舞われた根ざしを、ここに感じ取ることができる。
 ダービー窯に在籍した「ウィリアム・ペッグ」は二人おり、それぞれの人物には「二つ名」があり、中でも最も有名な一人はウィリアム・“クエーカー”・ペッグと呼ばれていた。「クエーカー」とはキリスト教の一派である「クエーカー教徒」を意味する。ウィリアム・“クエーカー”・ペッグには、同じく絵付け師である弟がおり、こちらはトーマス・“ジョシュア、ザ・プロフェット”・ペッグと呼ばれていた。「ジョシュア、ザ・プロフェット」とは、旧約聖書のヨシュア記に登場するユダヤ教徒の統率者「預言者ヨシュア」の意味である。
 ウィリアム・“クエーカー”・ペッグはもともとダービー窯出身の絵付け師で、花絵を最も得意としていた。しかし1820年にはダービー窯をやめて、絵付けの仕事から引退している。ジョン・ハスレムは、ウィリアム・“クエーカー”・ペッグの周辺に起きた様々な事情をあれこれと説明した上で、他窯に行って絵付け師の仕事を行うことは不可能だとしている。一方もう一人のウィリアム・ペッグは、ダービー窯をやめた後、1840年にはランカーシャーへ赴いて印刷工場のパターン・デザイナーとなり、後に自身でも同様の印刷業を始めた。 このようなことから、ダニエル窯にいたペッグは“クエーカー”ではなく、“ヤンガー”とあだ名されたウィリアム・ペッグだと考えられる。この人物と“クエーカー”“ジョシュア、ザ・プロフェット”兄弟との間には血縁はないとされる。

 実力のある絵付け師を揃え、美しい花絵を特徴としたダニエル窯の作品を紹介するにあたり、今回は豪華な色絵が施されたコーヒー・カップを取り上げる。
 カップとソーサーの中央には、それぞれ八種類の花を組み合わせたブーケが描かれ、紺色とクリーム色を組み合わせた地文様が施されている。紺地の部分にはピンク色と金彩で花絵があしらわれ、クリーム地の部分は文様が展開してスカロップ型になっている。
 カップには手の込んだ金彩文様が描かれ、特に外側の金彩には毛髪のように細い線で精密な仕上げが行われている。
 形状はプレーン・シェイプと呼ばれるものだが、ハンドルは三本の植物が複雑に捻じれ合って絡み合う、独特の造形になっている。
 






H.&R.ダニエル
1823年
ティー・カップ:H=60mm、D=93mm/ソーサー:D=143mm
 1822年にスポード工場内の工房から独立したヘンリー・ダニエルは、1822〜23年にかけてボーンチャイナによるテーブル・ウエアの製造を開始した。現在知られている最も古い作例はロンドン・シェイプで、1823〜24年の間にだけ製造された。ダニエル窯のロンドン・シェイプでは、立体装飾(エンボス、レリーフ)がないプレーンな器型と、リボンの立体ボーダーと月桂樹の立体リースの造形を持った器型の二種類が作られた。ダニエル窯ではリボンと月桂樹のリースがあしらわれた「エンボスト・ロンドン・シェイプ」を中心として製造・販売したため、プレーンな器型のものは極めて珍しく、特にカップ&ソーサーについては「おそらく製造されただろうが、いまだに発見されていない」とされてきた。本品はそのロンドン・シェイプのプレーンな造形のカップ&ソーサーで、ダニエル窯の研究史上における重要な資料の発見であるといえる。
 このカップのハンドル下端部は強く湾曲しており、ダニエル窯のデザインであることを示しているが、何よりもハンドルの垂直部に、全てのダニエル窯製ロンドン・シェイプのカップに共通の、原型に起因する造形上のミス(内側に不要な瘤)があるため、本品の白磁はダニエル窯で作られたものと特定できる。
 また絵柄はシュルズベリの陶磁器博物館に収蔵されているダニエル窯製のスープ入れと共通のものである。様式化された矢車菊と、その下の小さな金彩の葉と赤い実(種)の図柄を青線で繋ぎ、口縁周りには長方形の枠内に赤い実(種)を付けた植物が描かれている。
 この絵柄については、ダニエル窯の原資料にパターン・ナンバーの記載がなく、ダニエル開窯以前に他の窯で描かれていたかどうかなど絵柄の由来と、パターン・ナンバーについては、更なる研究が必要である。

 ダニエル窯のパターン帳は3000番台以降の資料が残されていて、2000番台のパターンを記した台帳は失われているが、マイケル・バーソード達の調査により、2000番台の絵柄とパターン・ナンバーが現在二つだけ判明している。そのうちの一つが本品の絵柄で、ナンバーは2863である。
 この絵柄はスポード時代から製造されているということだが、スポード社の分社状態であったダニエル派が権利を所有して製造していたパターンであろう思われる。1822年にヘンリー・ダニエルが独立した際に、ベル・シェイプなどの原型のデザイン使用権や一部のパターンを、スポード側が手放してダニエルに譲ったが、この絵柄もその内の一つと考えられる。
 これを「スポード窯の絵柄のコピー・模造」とするかどうかについては、本デザインがダニエル派の職人達が描いてスポード窯内で製作していたものならば、「ダニエル・オリジナル」と認定したほうがよい。ダニエル派はスポード窯内にあった独立工房であり、異なる組織で運営されていたという内容については、本ページ別項に述べてある。
 






H.&R.ダニエル
1825〜30年
ティー・カップ:H=48mm、D=101mm/ソーサー:D=145mm
 スポード・タイプのボーンチャイナに明快な地色と華やかな色絵を施したダニエルの作品は、チェンバレンズ・ウースターと並んで十九世紀前半のイギリスで最も美しい磁器という評価を獲得している。
 スポード窯の優れた絵付け・金彩師であったヘンリー・ダニエル(1765〜1841)は、1802年にスタッフォードシャー磁器で初めての盛り上げ金彩(レイズド・ゴールド)による加飾を施した作品を製作し、1805年頃に英国で初のシルバー・ラスター彩の使用を達成するなどの成果をあげ、スポード工場の敷地内に独立した絵付け工房を所有するなどの優遇を受けていた。実際にジョサイア・スポードとヘンリー・ダニエルは、資本関係がない共同事業体のような形態をとっており、ダニエルはスポードからの独立性を保つため、むしろ資本提携・経営参加をしていなかったものと考えられる。
 ヘンリー・ダニエルがスポード窯から独立する前年の1821年に、スポード工場の全職員(女性や子供も含む)は六百四十人だったが、その記録法が大変ユニークで、ジョサイア・スポード派の職員・職人と、ヘンリー・ダニエル派の職員・職人の人数を明確に記載している。それによればスポード所属が四百四十八人、ダニエル所属が百九十二人となっている。これはイギリス磁器窯業史上に稀な実態であり、ヘンリー・ダニエルが単なる親方としての待遇を受けていた人物ではないことを示している。しかも所属職員の比率は正確に7:3に分けられており、スポード窯では契約によって意図的にダニエル工房への人材配分を行っていたことが伺える。
 1822年には初期ミントン窯のビジネス・パートナーで、スポード窯のビジネス・パートナーを務めたこともあるジョゼフ・プールソンのストーク・オン・トレント工場を買収し、スポード窯との双方合意によりヘンリーは独立した。ヘンリーは長男のリチャードを窯業に資本参加させ、社名はH.&R.ダニエルとなった。ダニエル、ミントン、スポードの三工場は、その後しばらくの間、相互に職人の入れ替えを行う友好企業だった。しかしダニエルがスポードから独立した背景には、スポード社の大株主で経営パートナーであるウィリアム・コープランドとの性格の違いによる相克と軋轢があった。
 スポードと袂を分かつことになった原因についてヘンリー・ダニエルは、具体的内容と自らの思いをソネット(十四行詩)に託して綴り、その自筆の遺稿が残されている。それによれば、「偉大なウィリアム(コープランドのこと)の家では美食と酒に満ちた贅沢な暮らしが続き、たかってくる人々に対して派手で愚かな散財を繰り返す、ジョサイア(スポード)を真似て傲慢に振る舞うが、当のジョサイアは彼を侮蔑的にしか扱わない」などの文言が連なる。また「知人は多いが味方は少ない」とし、「ウィリアムの家のドアのノッカーを見ると目が眩む、それは日光・月光よりまぶしく輝く(筆者注:純金製のドアノッカーだった)、ウィリアムは愚行の挙げ句に酒膨れ金膨れとなり、童話のカエルとなり果てる」と完全に馬鹿にした表現が読み取れる。
 このようにウィリアム・コープランドの虚飾と野心に反発し、彼を農民上がりの俄か成金と蔑んだヘンリー・ダニエルは、独立直後から極めて優れた経営の才覚を見せ、創業から半年を経ずして工場には注文が殺到した。絵付け師を中心に多くの職人を新たに雇い入れ、1827年にはシェルトンに新たな工場も獲得し、同年シュルズベリ伯爵家からの注文により、豪洒なディナー・サーヴィスとデザート・サーヴィスを納品することとなり、事業は繁栄した。
 ヘンリーが1841年に亡くなると、息子のリチャードが事業を引き継いだ。しかしリチャードは1846年に磁器の製造をやめ、陶器類の製造へと業態転換しようとした。したがってダニエル窯製の磁器作品は、1846年をもって製造が終了している。リチャードは1846年にエルドン・プレイスに所有していたアーザン・ウエアの工場をブーザン・ロードに移転し、莫大な投資を行った。なおエルドン・プレイス工場は、資料によってニューロード、ロンドンロード、エルドンストリートなどと表記が異なるが、これらは全て同じ場所を指している。さらに同1846年、フェントンに新しくアイアン・ストーン・チャイナとアーザン・ウエア専門の工場を建てたが、一年のうちでの度重なる投資の負担が嵩み、翌1847年には借金の返済に行き詰まり、リチャードは破産宣告となった。彼はそのまま返済不能者用の監獄に収監され、せっかく建てた新しい工場も同1847年中に競売にかけられ、H.&R.ダニエル窯は消滅した。
 リチャード・ダニエルがなぜこれほど急速に陶器製造の準備に奔走しなければならなかったのか、その事情を窺い知ることができる手紙類は残されていない。ただ磁器製造をやめたと同時に行った陶器製造への過剰投資で、一年を待たずして美しいダニエル窯の作品があっけなく滅んでしまったことは非常に残念である。

 さて本品は、カップ口縁の内側にガドルーンがレリーフ造形された「セカンド・ガドルーン・シェイプ(ダニエル製品のみの呼称)」に、羽飾りの親指掛け(サムレスト)がある優美なハンドルが付いたティー・カップである。このハンドルは十九世紀中盤〜後半に現れる「ブロークン・ループ・ハンドル」の前駆となるものである。
 本品の絵柄はこの窯の作品としては比較的すっきりしたもので、通常よく見られる花絵が控え目に描かれている。金彩はロココ風のCスクロールを用いた枠取りになっており、紺地の部分には輪違いと尖角による風変わりな図柄が見られる。紺色とクリーム色の二色で装飾された花絵の食器は、ダニエル窯で最も好まれた配色パターンの一つである。
 ダニエル窯の他のシェイプのティー・カップが「アンティーク・カップ&ソウサー」p.60〜62に掲載してあるので、ご参照いただきたい。
 

 

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