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ロバート・チェンバレンは、ドクター・ウォール期のウースター窯最初期の、1750年代から在職していた色絵付け師で、1770年代には絵付け部門の有力なスタッフになっていた。しかし1783年、ウースター窯の経営者がジョン・ウォールやウィリアム・デイヴィスなどの創立メンバーから、ロンドンのトーマス・フライトに引き継がれると、チェンバレンは息子で絵付け師のハンフリーを連れてフライト・ウースターを辞去しようとした。トーマス・フライトは、ウースター窯のロンドンでの小売り部門を担当していた人物で、自分の息子達に与える目的のためだけにウースター窯を買収したとみられている。トーマス自身はロンドンに住んでいたばかりでなく、ウースター窯の小売りショップであるにも拘らず、扱う商品の大半はフランス磁器であり、彼の事業にはウースター窯製品の仕入れの必要がほとんどなかった。フライトが輸入していたフランス磁器は品質においてイギリス製品よりもはるかに優っており、ウースター窯製品では太刀打ちできない水準だったといわれる。
トーマス・フライトは、ウースター窯買収の翌1784年に、長男のジョゼフをウースターに送り込んだ。ジョゼフはフライト・ウースターの白磁に絵付けを行って納品を継続することを条件に、1786年、同じウースターの街にチェンバレン父子が絵付け専門の自分の工房を開いて独立することに合意した。
チェンバレンは最初の二年程はフライト・ウースターから白磁の供給を受けていたが、1788年にジョゼフの弟であるジョン・フライトがウースター窯に参入すると、1789年始めにかけての間にフライト兄弟と決裂し、白磁提供元をカーフレイ窯に変更した。弟のジョン・フライトは、兄のジョゼフに比べて勘定高く、打算的な人物だったと伝えられている。また彼は、父が扱うフランス磁器を見て育ち、生来のフランス好みであり、チェンバレンが描く中国写しや伊万里・柿右衛門写しといったウースター伝統の色絵を、フランス磁器より劣るものと見なして評価していなかった。チェンバレンは、自分の芸術を理解せず、冷徹な態度で接してくるジョン・フライトへの反発を強めた。ジョンは会社の利潤追求のため、チェンバレンに卸す白磁の売価を値上げしようとして背かれ、ウースター窯と同じステアタイト製法で安価な白磁を生産するカーフレイ窯に、チェンバレンとの取引を奪われてしまった。この出来事はチェンバレン一族とフライト一族との間に深い怨恨の種を撒き、激しい憎悪の嵐を引き起こした。
チェンバレンの新たな盟友となったカーフレイ窯の経営者トーマス・ターナーは、チェンバレンに白磁を売るばかりでなく、巨額の資金をも貸し付けた。チェンバレンはこの資金をもとに、フライトと決別した1789年には、早くもウースターのハイ・ストリートに小売店を出し、自社製品に加えてカーフレイ製品をも販売した。この店は、ドクター・ウォール期ウースター窯の十五人の創業株主の一人で、地元での小売り部門を担当していたサミュエル・ブラドレイの古いショップを買ったものだったため、ウースター窯の昔馴染みの顧客の多くがチェンバレンに流れてしまった。後にジョン・フライトは、この痛恨事を後悔の念をもって書き残している。
フライト・ウースターがこのような騒ぎの渦中にあった1789年、ジョン・フライトはチェンバレンに対抗するため、父親の縁故を利用してパリの各窯業者を訪れた。中でも「アングレーム公爵の工房(ディール&ゲラール)」との間に、六年間にわたって大量の白磁を買い付ける契約を結んだ。こうしてフライト兄弟は、磁器製造者・窯元としての誇りも自負もかなぐり捨て、他窯の磁器を仕入れて販売することでウースター窯の利益が上がりさえすればそれでよしとする、単なる「焼き物商人」に堕落していった。ジョン・フライトは、精巧で艶やかな初期ウースターの色絵を継承する高価なチェンバレン製品への対策として、ディール&ゲラール製の輸入フランス白磁に簡単な金彩を施して安価に薄利多売する戦略を立て、新たに女性金彩師シャーロット・ハンプトンを雇って大量生産を指導させた。それまでのウースター窯は、金粉を蜂蜜で練って絵付けする「ハニー・ギルディング」という技法を用いて加飾していたが、ハンプトンは金粉を水銀で練るロンドン風の金彩技法をウースターにもたらした。金の色が赤っぽく、筆の刷毛目が見えるハニー・ギルディングとは異なり、水銀金彩は表面が滑らかで、よく輝く平面的な黄色い金彩が特徴である。チェンバレン父子の離反事件をきっかけに、1789年以降のウースター窯の象徴となったこの金彩技法は、彼女の名前をとって「ハンプトン・ギルディング」と呼ばれる(「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」p.123下に、フライト・ウースターの量産品を掲載)。
ところでチェンバレンの絵付け工房は、カーフレイの白磁に色絵・金彩を施し、再びカーフレイに送り返すといった、カーフレイ窯の絵付け部門としての役割も担っていた。このような資本・卸−製造・販売代行という関係から、この時期のカーフレイとチェンバレンを提携企業もしくは一体のものと見て、「カーフレイ=チェンバレン」と呼ぶ学説もある。
やがてカーフレイによる白磁の供給が、チェンバレンの仕事量に追い付かなくなり、1791年頃、チェンバレンは自力で白磁を焼成しようと決意し、遅くとも1793年までには窯を建設したとみられる。その後はカーフレイ製の白磁への加飾を続けながら、徐々に自社製白磁の使用への切り替えを進め、1796年には自社白磁の安定供給に漕ぎ着けた。チェンバレンの白磁はハイブリッド・ハード・ペースト(混合硬質磁器、擬似硬質磁器)素磁で、70%近い珪素を含有し、マイセン白磁に迫る1430度以上の高温にも耐える品質を持っている。この時期、1795年前後のチェンバレンズ・ウースター最初期の自社素磁に絵付けした作品(パターン・ナンバー9番)が、「アンティーク・カップ&ソウサー」p.47に掲載してあるので、ご参照いただきたい。
ロバート・チェンバレンは1798年に亡くなり、会社は彼の息子で共に絵付け師のハンフリーとロバート兄弟に引き継がれた。
その後、1807年9月に英国皇太子(後の国王ジョージ四世)が工場を訪れ、チェンバレンズ・ウースターは初めて王室御用達となった。これをきっかけに王室向けの超高級白磁の開発に着手し、1811年に皇太子が摂政になると、同年、慶祝の意味を込め、この素磁に「リージェント・チャイナ」と銘打って発表した。このハイ・コストな新磁器に、極めて精巧な絵画的色絵を描き、手の込んだ金彩をふんだんに巡らした豪洒な貴族向け作品は、英国他窯に甚大な影響を及ぼした。同時期のライヴァルであったバー、フライト&バー期のウースター窯やブルーア期のダービー窯などは、競ってこの装飾様式に追随しようとし、また同様に新素磁と新釉薬の開発に凌ぎを削ったが、どちらの窯も贅を尽くしたチェンバレンズ・ウースター製品の人気には及ばなかった。
チェンバレンは1813年にロンドンに進出してピカディリーに小売店を開設した。1816年にはニュー・ボンド・ストリートに移転して規模を拡大し、事業は繁栄した。そして1820年代にかけて、名実ともに英国磁器メーカーの王者と賞される最高の地位と評価を確立してゆく。
[チェンバレンズ・ウースター窯の歴史は後半へ続きます。]
この作品はバケット・シェイプという形状で、チェンバレンの「十八番(おはこ)」のスタイルとして知られ、他窯にはあまり作例がない。シェイプ名はチェンバレンズ・ウースター窯では「バーデン・シェイプ」と呼ばれており、キドニー(腎臓型)・ハンドルが取り付けられている。ソーサーは深型の古いタイプが用いられている。
染付の藍地に金彩で草の葉文様があしらわれ、白抜きのパネル内にはエナメル上絵付けでチューリップやポピー、パンジーなどの花が描き込まれている。
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