コラム9
『ヘレンドが歩んだ道』
白磁:ハース&チーチェク(ボヘミア・シュラッゲンヴァルト)
絵付:ヘレンド
1918〜45年 金彩で塗り潰されたシュラッゲンヴァルト窯の焼成印、ヘレンド窯の加飾印
コーヒー・カップ:H=46mm、D=61mm/ソーサー:D=113mm


ヘレンド窯は倒産していた
 1855年のパリ万博と1862年の第二回ロンドン万博で金賞を受け、事業が進展したヘレンド窯では、1867年には経営者モーリツ・フィッシャーがオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の名の下に貴族に叙せられた。しかしこれは一般に信じられているような「貴族」とは少々趣の異なる貴族である。
 モーリツ・フィッシャーには「ファルカスハージ」というハンガリー風の貴族名があてがわれ、「モーリツ・ファルカスハージ・フィッシャー」となったが、これは領地持ち・城持ちの貴族になったわけではない。こうした下賜名は売位売官に利用され、小金を溜め込んだ商人や工場主が、金銭を対価として手に入れる称号であった。しかもこのような貴族名売買による収入は、国家の財源としても重要な役割を果たしていたのである。つまりフィッシャーは「ファルカスハージ」の呼称を金で買ったわけである。
 1873年のウィーン万博ではハプスブルク家から贈答用の買い上げ品などが注文され、ヘレンド窯の出展は成功に終わった。しかし同1873年、オーストリア=ハンガリー帝国内では株価の暴落に端を発するウィーン恐慌の影響から企業倒産が相継ぎ、経営難に陥ったヘレンド窯はそのまま収支が持ち直すことなく、打開策も講じられない状態で1874年に倒産した。
 この事実は現地ハンガリーのヘレンド社としては隠蔽しているわけではないようだ。同社のホームページを見れば「bankrupt」という直接的な用語を使ってこの件が記述されている。
 このとき経営者のモーリツ・ファルカスハージ・フィッシャーは、出身地であるタタに逃げ帰った。ヘレンドではこれを「モーリツ・フィッシャーは経営権を二人の息子に譲って、故郷のタタに引退した」としているが、正確ではない。なぜならば、1878年のパリ万博に出展したヘレンド窯のブースを取り仕切っていたモーリツ・フィッシャーに、18世紀磁器のコレクターとして有名なレディー・シュライバーが面会し、その様子を手記に書き残しているからだ。息子に会社を譲って田舎に隠居した老人が、自社製品を売るためにパリの万博会場に現れるはずがない。したがって「倒産のほとぼりが冷めるまで、債権者の追手を逃れてタタに隠れていた」というのが真実である。
 1874年の倒産以来、資産価値が下落したヘレンド窯は売るに売れず、蓄積した債務も一向に解消されなかった。その後十年間にわたってフィッシャー一族が無策のまま無意味に窯を保持した末、ようやく1884年にハンガリー政府が重い腰を上げて工場を国営化した。こうしてフィッシャーの一族はヘレンド窯業から去った。

左:ヘレンド(絵付) 1918〜45年/右:ヘレンド 1990年代

孫のイェネーは何をしていたのか?
 ヘレンド窯はフィッシャー一族を排除して、1884年以降十二年間にわたって国営企業として経営されたが、1896年にモーリツ・フィッシャーの孫に当たるイェネー・フィッシャーが会社を買収し、再びフィッシャー家の財産となった。この十二年間のうち、イェネーは何をして買収資金を蓄えたのであろうか?
 イェネーは、1873年にブダ市とペスト市などが合併して成立したハンガリーの首都ブダペストの、ペスト地区に工房を開設し、他の窯業者から白磁を購入し、それに絵付けだけを行って手早く販売する、という商法を展開していた。筆者自身がジョルナイ窯のコピー絵付けに「イェネー・フィッシャー、ペスト」と書き込まれた作品を発見している。イェネーはこうした事業で稼いでいたわけだが、この「絵付け商法」のビジネス・モデルは、当時ドレスデンの街で繁盛していた「贋作絵付け工房群」のやり口であり、イェネーはこれを学んでドレスデンの商法を真似したのだった。

ドレスデンの贋作者達とヘレンド
 ドレスデンの街には絵付けだけを専門に行う加飾工房が乱立し、贋作製造の注文を受けたり絵付け技術の高さを競い合ったりして繁栄していた。贋作用の白磁の供給元はマイセン窯(!)をはじめ、バイエルン地方のローゼンタール社やフッチェンロイター社、ボヘミア地方のシュラッゲンヴァルト窯、ピルケンハンマー窯などを中心に、極めて多岐にわたっている。マイセン窯では非公式ながらドレスデンの絵付け工房に白磁を卸し、自窯に代わって絵付け作業を分担させていたという事実が、当時の手紙や日記からわかっている。
 主要な贋作者として名前が知られている工房は、ヘレナ・ヴォルフゾーン、ドナート&Co. 、アドルフ・ハマン、カール・リヒャルト・クレム、アンブロジオ・ラム、カール・テーメなどがある(「アンティーク・カップ&ソウサー」P.214〜215、「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」P.24〜25参照)。
 これらの絵付け工房が仕入れた白磁の多くには、供給元の焼成印(窯印)が入っていた。そこでマイセン窯に似せたもの以外の窯印を消すために、焼成印の上に金彩で花などのシルエットを描いて窯印を塗り潰し、一見しただけでは白磁メーカーがわからないようにした。この場合は強い光のライトを当てて透かすことにより、金彩の下に隠された白磁供給元のマークを見ることができる。
 今回のコラムで取り上げたカップ&ソーサーには、ヘレンドの窯印のほかに金彩で塗り潰された葉の文様があり、これを光に透かすと下からシュラッゲンヴァルトの窯印が浮き上がる。すなわち本品の白磁はヘレンドが焼いたものではなく、ボヘミアのシュラッゲンヴァルト窯から購入し、上絵付けだけをヘレンド窯が行ったことを示している。[写真1][写真2]
 そもそも窯業者というのは、自社の窯で自前の白磁を焼成することが当然の前提条件になっている。白磁を他から買うようになったら、それはもはや「絵付け工房」であって「焼き物業者」ではない。手っ取り早く儲かり、日数も燃料費もかからないこの手の商法には、少なくとも矜持と誇りを持った窯業者であれば手を染めることはない。本品のような証拠品が残されている以上、イェネー・フィッシャー以降のヘレンド窯は、20世紀に入ってもなお、窯元としてやってはならない行為を続けていたということになる。
 また、ボヘミアのシュラッゲンヴァルト窯は、前述の通りマイセン窯の贋作白磁供給者であった。本品はそのことも証拠付けている。この器型のカップ&ソーサーは、マイセン窯でデザインされた「ノイエ・アウスシュニット型」の贋作を製造する目的で販売されたコピー白磁である。マイセンの真正品と並べて比べれば細部の造形が異なっていることに気付くが、一般の人々にはこのことはわからない。[写真3]
 また絵柄については、「ウィーン窯様式」のフルーツ、野菜類が描かれている。この絵柄は1864年にウィーン窯が閉じられた後、ヘレンド窯で盛んに模造されたパターンで、この絵付けは現代のヘレンド窯でも継続して製造されている。[写真4]

[写真1] カップ [写真2] ソーサー

[写真3] 左:シュラッゲンヴァルト(白磁) 1918〜45年/右:マイセン 20世紀前半


[写真4] 左:ヘレンド(絵付) 1918〜45年/右:ヘレンド 1990年代

 

 現地のヘレンド窯では、自社が贋作メーカーであったという歴史的事実を、隠さず認めているようだ。実際に磁器工場に併設された美術館で学芸員などの説明を受けた人の多くが、「ヘレンド窯ではコピー商法を売り物にして儲けていたということを、悪びれもしないで説明された」と書いたり語ったりしている。
 「ヘレンデ(原文表記)創立のいきさつが面白い。彼(デザイン部長ホルパート・ラズロー氏)の説明と、英語文の小冊子によると、この窯の創立は、マイセンをはじめとする他のヨーロッパの王立の窯々が、そろそろ財政難その他で落ち目の頃、すなわち1839年、ユダヤ人のフィシャー・モア氏によって創立された。なんと 面白いことに、最初は落ち目になった有名窯々の、全くの模倣品を作るか、それらの修理をすることからはじめたという。そのほうが手っとり早くもうかると見たユダヤの商法か。まずマイセンもの、セーブルもの(パリ)、もちろん明末の赤絵ものや、伊万里もの等々の、そっくりもの真似からはじめたようだ。」(「海を渡った古伊万里 -美とロマンを求めて-」 深川正著、1986年、主婦の友社刊)
 著者の深川正氏は佐賀県有田に生れ育ち、「香蘭社」という磁器製造会社の社長を務めた、いわば伊万里・有田焼のプロである。その深川氏の目から見て、18世紀の古びた伊万里焼にしか見えない展示品の蓋付き沈香壷について、「これは日本からの輸入品(日本製の古伊万里)だろう」と皮肉をぶつけると、相手は「とんでもない、これはわがヘレンデ社製の、しかも20世紀の初め頃の作品である」と大まじめに答えたという。20世紀になってもなお贋作活動を行っていたことを是とし、贋造技術の高さを自社の誇りとするこのような姿勢には、脱帽して撤退する以外にない。日本人とマジャール人の気質の温度差には埋め難いものがある。
 日本では良い方に「誤解」されているヘレンド。日本では隠され、ハンガリーでは公然と語られる、贋作者としての同社の歩み。なんだか非常にバカにされているような気がしませんか?日本国民の皆さん!
(「アンティーク・カップ&ソウサー」P.106参照)

 

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