コラム5
『シャーロット王妃とセーヴル窯の“ウィンザー・サーヴィス”』
セーヴル(ウィンザー城のパターン)
1788〜90年 金彩でLLを組み合わせたモノグラムの窯印
カップ:H=64mm、D=58mm
 


コールポート、ジョン・ローズ&Co.が製造したセーヴル窯の模造品(1815〜25年)


ミントン 「クイーン・シャーロット・パターン」 (1830〜40年) モーニング・カップ:H=65mm、D=113mm/ソーサー:D=171mm
 

 イギリスの王妃の中でも、広く国民から敬愛を集めた人物の中の一人に、ジョージ三世妃シャーロット(1744〜1818)がいる。彼女はドイツのメックレンブルク=シュトレリッツ家から1761年に輿入れしてきた。したがって本来のドイツ風の呼び名は「ゾフィー・シャルロッテ」という。
 夫のジョージ三世(1738〜1820)はハノーヴァー朝の王で、1751年に皇太子となり、ジョージ二世の後を受けて1760年に即位した。英国美術史では、ジョージ一世から四世までの期間の装飾工芸様式の括りを「ジョージアン様式」と称する。しかし「ジョージアン」という分類は極めて大雑把で乱暴な様式区分であり、磁器装飾に関してはジョージ三世時代と四世時代ではかなりの隔たりがある(後述)。
 ジョージ三世とシャーロット王妃は、1761年に婚礼をあげた。ジョージ三世は結婚と同年、バッキンガム公爵のロンドン邸を購入し、ここをロンドンにおける王室の重要拠点として、公私にわたって利用することになった。これが「バッキンガム宮殿」の始まりである。王と王妃としては、新婚のジョージ三世とシャーロット王妃が、バッキンガム宮殿の最初の主となった。
 ジョージ三世の治世では植民地としてのアメリカ大陸を失うなどの失政もあったが、イギリス史上最年少で首相に就任したウィリアム・ピット(小ピット。プリマスのページ参照)の活躍もあって、総体的には無難な在位期間を送った。しかしジョージ三世の生涯は、自分の健康と家族の行状に大きな問題を抱えたものだった。
 後にジョージ四世となる長男の放埒な女性問題や巨額の借金、ギャンブルや競馬八百長事件、次男フレデリックの収賄失職など、ジョージ三世自身は女性問題にも潔癖で、子供も厳格に教育したのだが、結果は裏目に出てしまった。
 またジョージ三世は「ポルフィリン症」という難病にかかっていたということがよく知られる。ポルフィリン症は血液の代謝生成に関わる酵素異常症とされ、光毒性によって太陽光線に当ることができないなどの不自由があった。
 また王は生涯に数回の精神異常、発狂の発作を起こしている。最初は1765年で、その後二十年以上は小康であったが、二回目の1788年の発作は重篤で、ほぼ正気を失うほどであったという。
 これらの精神疾患の原因としては様々な学説があるが、ポルフィリン症の神経作用(ポルフィリン症はハノーヴァー家の遺伝病で、ジョージ三世は五代ぶりに発症したとされる)、早産による影響(妊娠七か月で未熟児として生まれたといわれる)、東インド会社関連の裁判のストレス、息子達の不品行スキャンダルのストレスなどが挙げられている。
 1765年以来繰り返した発作については躁鬱症との説もあるが、1788年の病気については、おそらくポルフィリン症関連の発作と思われる。というのも、この年から王はロンドンのバッキンガム宮殿を出て、ウィンザー城の薄暗い室内に引き籠るようになり、これは外光に当らないようにする目的だったことがわかっているからだ。シャーロット王妃は自分も一緒にウィンザー城へ行き、1818年に亡くなるまでの余生のほとんどをこの地で送った。
 王のウィンザー引退に伴い、ロンドンでは政治の中枢を首相ウィリアム・ピットが完全に掌握した。またシャーロット王妃は、新しい住居に彩りを添え、王の気分を明るくし、自分の楽しみも兼ねて、新しい食器セットをウィンザー城で買い揃えることにした。
 そこで夫妻は1788年にウースター窯を訪れ、ここでティーセットやディナーセットを注文したという言い伝えがある。しかし今日の学者の多くは、王夫妻の窯訪問の事実は肯定しても、ウースター窯の製品を買ったとする説にはほぼ否定的である。ウィンザー城にそれらしいセットがないこと、ウースター窯に発注、製造、納品の記録がないことが主な理由である。
 言い伝えでは、シャーロット王妃は中国磁器の蓮の花文をコピーした銅版転写染付の作品を買い上げ、それにちなんで以後このデザインを「ロイヤル・リリー」と呼ぶようになったという(「アンティーク・カップ&ソウサー」p.39参照)。また染付に赤絵のマイセン・中国写しの食器も買い上げ、それにちなんで以後このデザインを「クイーン・シャーロット・パターン」と呼ぶようになったという。
 しかしこの二つのデザインはウースター窯を代表する二大量産品であり、王室が買い上げる食器の性質からは程遠いものである。イギリスの王室や貴族は、このような簡素で野暮ったい意匠を好むような生活スタイルにはなく、多くの場合セーヴルなどのフランス製品とそのコピー品を指向する美意識にあった。
 特に「クイーン・シャーロット・パターン」は、1755年にウースター窯で製造が始まったが、間もなく人気がなくなって、1775年頃にはウースターのカタログから姿を消した。しかし薄利多売で安価な量産品を作ったフライト一族にウースター窯が買収されると、1790年代からこの図柄が復活し、フライト、バー&バー、ウースターが1840年にチェンバレンに吸収合併された後は、再び製造されなくなった。それまでの間はずっと「オールド・スクロール・ジャパン」というパターン名で呼ばれており、「クイーン・シャーロット・パターン」と呼ばれ始めたのは、シャーロット王妃が亡くなって三十年、このパターンが製磁業界から消えて十年が経過した、1850年代のことである。しかも王妃訪問時の1788年は、丁度この図柄が製造されていない時期にあたる。このことからしても、シャーロット王妃とこれらウースターの量産品との関連性はほとんどないと結論づけてよかろう(「アンティーク・カップ&ソウサー」p.74参照)。
 他の窯の例では、シャーロット王妃のために作られたと称するウエッジウッド社の「クイーンズ・ウエア」というクリーム色の陶器にも同じことが言える。ハノーヴァー王家では英国製の量産食器を使って食事やお茶を楽しむようなことはあり得ない話だった。窯の箔付けのために、王室を利用した逸話を後世の経営者が捏造した例は、英国以外のヨーロッパ各窯にも散見される。
 それでは一体、1788年にウースター窯を訪れたジョージ三世とシャーロット王妃が、同じ頃ウィンザー城で買い上げ、実際に愛用していた食器はどのようなものだったかというと、「ウィンザー・セットのセーヴル」と呼ばれる名高いサーヴィスが筆頭に挙げられよう。このサーヴィスは、シャーロット王妃の人気と相まって、英国で最も有名なセーヴル作品の一つとなった(本ページの写真参照)。
 現実にはこのようなフランス製の華やかな高級磁器に囲まれて暮らしていたジョージ三世夫妻であったが、その後も王の精神錯乱の発作は続き、1801年、1804年に重い症状が出て、次いで1810年に娘に先立たれた王は、その悲しみからほぼ発狂状態となった。翌1811年には認知症的な行動が強くなり、同時に視力を失ったため、ジョージ三世の公式行事参列は絶望的となった。
 これまで首相ウィリアム・ピットは、自堕落な皇太子の専横と、彼の政治的な口出しを厳しく規制してきた。1806年にピットが亡くなった後も、皇太子は1809年から首相となったスペンサー・パーシヴァルとも対立した。しかしジョージ三世の廃人化に伴い、遂に首相パーシヴァルも皇太子を摂政に据えることを容認せざるを得なくなった。1811年から1820年まで、皇太子が摂政だった期間を「リージェント時代」という。
 摂政になった皇太子は、「リージェント」と名の付く公園や広場、街路を次々に整備し、自己顕示欲を満足させた。1818年には母シャーロット王妃が亡くなり、1820年にジョージ三世が亡くなると、彼は即位してジョージ四世となった。
 ジョージ四世はヨーロッパ大陸の王室の人々と比べれば、装飾美術的な教養に欠けていたと評価されるだろう。彼は美術的要素に関しては、気に入った物を手当たり次第、何でも適当に取り入れていた。女や酒への対応とほとんど同じ姿勢である。その自己満足の館(今では冷笑の館)が、ブライトンに建つ「ロイヤル・パヴィリオン」である。
 彼の目には「東洋」といえば、インドも中国も同じ文化に映ったようで、醜悪な印清折衷の「ロイヤル・パヴィリオン」建設にご満悦だった王は、ここを訪れることを楽しみにしていたという。
 王が先頭に立って旗を振る「ごちゃまぜ文化」に曝された1810〜20年代のイギリス装飾工芸界では、その影響を被った様式、すなわち欧州、日本、中国、インド、イスラム(トルコ、アラブ)が雑然と混ざり合った作風が幅をきかせた。その形状や文様はエキゾチックな風情を誤解したものか、あるいはイギリス人の勝手な感性によって、強引なアレンジ(変更)を加えたデザインになっていった。伊万里・柿右衛門写しや清朝写しでも、比較的その原題に忠実で、図柄の意味が判ったジョージ三世様式とは異なり、ジョージ四世様式では大胆なデフォルメと折衷・融合を行った、英国ならではのユニークな作品が生まれた。更にここにフランス起源のアンピール(エンパイア)様式が流入してきたため、この後イギリスの磁器装飾は、複雑多岐の度合いをますます強めることになった(「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」p.30、31参照)。

 さて今回は、ウィンザー城に数十個単位で伝世しているパンチ・カップと同じものを掲載した。ソーサーはもともとなく、カップ数十個とパンチ・ボウルのセットである。同じ形状で別柄のパンチ・セット(シャーベット・セット)がヴェルサイユにも所蔵されている。このカップの形は、英国では極めて正確にコピーされ、ほとんど変わらぬ造形で模作された。ダービーやカーフレイに優れた作例が残っている。英国製の作品の用途としては、シャーベット・カップやカスタード・カップなどと分類されている場合が多い。
 また図柄のコピーも盛んに行われ、ダービー、ニール、ピンクストン、スウォンジーなど、イングランド中部の窯を中心に大量の模作が残されている。これらのいずれもが絵付けの品質に優れており、高い評価を得ているが、ここでは参考として、これらの窯より遅く模造を始めたジョン・ローズ・コールポートが作ったコピー品のコーヒー・カップを掲載した。文様がセーヴルと同じ構成の図柄で仕上げられていることがわかる(「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」p.54参照)。
 また染付・白抜きに朱とピンクで上絵付けが施されたカップ&ソーサーの図柄が、「オールド・スクロール・ジャパン(クイーン・シャーロット・パターン)」である。この図柄も英国各窯で頻繁に模造されており、今回はミントン社のボーン・チャイナ製カップ&ソーサーを掲載した。図柄は正確に模倣されており、ウースター窯の出来映えとほぼ同等である。ハンドルの上部には羽飾りの造形がある。もちろん、このカップが作られた時代には、まだ「クイーン・シャーロット・パターン」という呼称はない。

 

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